連載 2024/7/25 蓮實 重彦 日本国憲法という醜い日本語のテクストはどうしても好きになれないが、それでも憲法違反は憲法違反として、あくまで追及されねばならぬと思っている
![オウム事件 webちくま「1995年」速水健朗](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/f3095ba99f805c4f8681f85e32bd4eb4cbc69bca/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fchikuma.ismcdn.jp%2Fcommon%2Fchikuma%2Fimg%2Fv1%2Fogp.png)
Tweet 「人の流れプロジェクト」において、「東京大学空間情報科学研究センターと共同研究を行っている(株)ゼンリンデータコムの「混雑統計(R)」データを用いて」、「携帯電話のGPSデータをもとに、2011年3月11日の東日本大震災時の人の流動を再現した」というこの動画は必見です。 地震前には活発に動き回っている人たち。 その人の流れが、地震発生時点、ピタっと止まります。 まるで東京全体が電気ショックを受けたようです。 その後、再び動き始めるのですが、その動きは非常にスロー。 交通機関が止まったからです。 23時を超えたあたりになって交通機関の復旧と共に、人の流れが徐々に高速に戻って行きます。 人の動きが見事に視覚化されています。 GISと地理空間情報―ArcGIS10とダウンロードデータの活用 posted with amazlet at 13.01.10 古今書院 売り上げラ
2012-12-25 戦時中、満州に行ってたばあちゃん(75)に当時の話を聞いてみた。 以前 Togetter にまとめたものですが、こちらにも残しておこうと思って再掲します。 このツイートは2011年1月ですが、ばあちゃんは今はもういません。この約2ヶ月後、2011年2月28日 この世を旅立ちました。 この話を聞いておいて本当によかったと思っています。 (でも身バレは困るので親には見せてないw) うちのばあちゃんは昭和10年3月生まれ。75歳。— ○ ○ ○ ○ !◝(●˙。˙●)◜さん (@reot8) 1月 10, 20111935年生まれってことは、終戦当時10歳だったわけだ。— ○ ○ ○ ○ !◝(●˙。˙●)◜さん (@reot8) 1月 10, 2011ばあちゃんは終戦当時10歳で、小学5年生、満州にいたらしい。— ○ ○ ○ ○ !◝(●˙。˙●)◜さん (@re
京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、豊臣秀吉が造った城郭式の公邸・聚楽第(じゅらくだい)跡(京都市上京区)で、本丸の石垣とみられる遺構を長さ32メートルにわたり確認したと発表した。 跡形なく壊されたと考えられていた大邸宅の存在を示す発見といい、同センターは「まだ遺構の多くが残っている可能性がある」としている。 聚楽第は1587年、秀吉が政務を執るため平安宮・大内裏(だいだいり)跡に造営。広大な敷地の周りに堀が巡らされ、大量の金箔(きんぱく)瓦が用いられたと伝わる。跡継ぎとなった甥(おい)の秀次に譲り渡されたが、秀吉に嫡男・秀頼が誕生すると、秀次は謀反の疑いをかけられ切腹。聚楽第も95年に徹底的に破壊され、遺構は残っていないと考えられていた。 調査では、自然石を積み上げた東西方向の石垣(最高約2・3メートル)を確認。東に向かうにつれて大きな石を積んでいた。当時、城郭の門に接する石垣には
およそ八十年前の東京・上野桜木に、現在のデジカメ感覚で写真を撮り続けた少年がいた。 少年が手にしたカメラは、小さな家が買える程の高価なカメラだった。 カメラが貴重だった時代に、家族や街並み、海水浴や学校など、少年は思いのままに撮り続けた。 プロカメラマンとしての目線ではなく、少年の目線での普段着の目線で・・・ 忘れ去られつつある普段着の昭和初期が今蘇える。
土曜の夜は、祖父母の家で夕食を過ごすことになっていた。 波の上という街に住む祖父母の家には、泊大橋という橋をこえていかなければならない。橋から見下ろす港にはたくさんの貨物船が止まっていて、なぜかそれらの甲板には決まって大きな犬がいた。 どうすれば船のうえで犬を飼うことができるのだろう? 子供ながらにそう思っていたし、それは今でも解くことのできない疑問だ。もしかすると、あれは夢でみた風景だったのかもしれない。 祖母がくれるお菓子はいつも亀田製菓の「雪の宿」だったこと、テレビにはクイズダービーが映しだされていたこと、祖父母と同居するS叔父が僕たち兄弟に折り紙を教えてくれたこと、幼い時分の記憶はどれも断片的で、はっきりせず、たよりない。 なかでも祖父の記憶はおぼろげだ。 僕がかろうじて覚えているのは、部屋の片隅で、しずかに泡盛を飲む祖父の姿だ。ほんとうに水のように酒を飲む人で、それで乱れるという
俺は「梯子たんヲチ1」?「梯子たんヲチ13」(スレ立てる人のミスで「5」はもともと存在しない) まで立てられたある意味伝説のブロガーなので(自分で言うな) ここで万を持して、踊り子本人の気持ちを語らせてもらう。 「梯子たんヲチ1」のスレが立ったときは正直、自分みたいなリアルじゃ誰にも興味もたれることない存在に、こんなにも多くの見知らぬ人が何らかの興味をもっている(!?)ということに内心密かに感激し、 どうにかこれを継続させなければ、自分は「終わってしまうのではないか…!?」 という恐怖も同時に抱え込むことになった。 ヲチスレの住人たちは、ヲチ対象をただ単に貶めるだけでなく、本人やただの一見さんにも共に興味を抱かせる香ばしい調理方法で、ヲチ対象を食えるように仕立てあげるのが時に天才的に上手だ。そしてそこに、ヲチ対象である本人も乗っかりたくなるのは何故か。…もちろん自分専用スレなら確実にチェッ
このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日本のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2023年5月時点の調査。
生涯未婚率が上昇していると言われ、当然、比較として、なんで昔の人は結婚できていたのか?という問題がたまにネットの話題に上がる。この手の問題は、解答の要件がはっきりしていないので、どういう話でもいい。寄席の大喜利みたいなものになってしまう。それでもいいのではないかな。そんじゃ。 よく昔の人の生涯未婚率は低いと言われる。生涯未婚率というのは50歳まで結婚したことがない人の人口比である。1920年代でも数パーセントみたいなグラフをよく見かける。これじゃ昔は皆婚社会だったなといった印象である。 1920年とかの起点がそうなっていると、ふーん、昔からそうなんだと思いがちだし、統計に根幹的なミスがなければ、そういうことなんだろう。だが、基点をもうちょっと昔にずらしていくとどうなるか。つまり、昔っていつか。 江戸時代のころはどうだったか。まず、よく言われるように、18世紀、世界に冠たる大都市・江戸だが、
この度の山中伸弥氏に対するノーベル医学・生理学賞決定の朗報は、基礎研究に携わる研究者の悪戦苦闘に世間の関心が向けられた点からもまことに意義深い。そこで当欄では、かつてノーベル賞受賞者を輩出したドイツ科学界に惜しみない支援を続けた一人の日本人を紹介しておく。 その人の名は星一(ほし・はじめ)、「ショート・ショート」と呼ばれる掌編小説のジャンルを確立した作家、星新一氏の実父である。彼は若き日に渡米、苦学してコロンビア大学を卒業し、明治38年に31歳で帰国して製薬会社や薬科大学を創設。一方で後藤新平と親しかったため、後藤の政敵から仕組まれたさまざまな妨害と戦いながら、激動の時代を果敢に生き抜いた快男児である。 その彼が後藤から、第一次世界大戦に敗北したドイツの科学界が実験用のモルモット一匹を買う金にも難儀しているとの話を聞く。この時である。星はこれまでドイツ科学界から日本が受けた恩恵に報いようと
【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況 作者: 金川英雄出版社/メーカー: 医学書院発売日: 2012/09/14メディア: 単行本購入: 36人 クリック: 943回この商品を含むブログ (7件) を見る 90年前の大正時代にはすでに精神病者に対応するための法制度もある程度はあったし、精神病院なんてものもあったわけだが、むろんみんながそこに入れたわけではなく、相当部分の精神病者――ボケ老人もかなりいるが、25-40歳くらいが大半――は家族が座敷牢を作ってそこにぶちこむしかなかった。その実態を調査したもの。著者の呉秀三は東京帝国大学の医学部の先生。精神病で呉というと、どうしてもドグラマグラを連想してしまうんだけれど、そういう関係はどうもないみたい。 あちこち農村に分け入ってはその実態を淡々と書いており、その収容されている座敷牢の平面図、患者の状況その他がひたすら記録されている
1948年(昭和23年)に横須賀走水海岸でCIA極東長官であるブルームと運命的な出会いをした成松孝安は、彼のすすめで渋谷区のブルーム邸で執事として、邸で行われた戦後史に残る「火曜会」で食事のサーブ。海外の一流シェフの料理を目の当たりにする。 1953年(昭和28年)、火曜会が解散となり、ブルームの援助を受けて田村町に6坪のスパゲティ専門店「Hole in the Wall」を開店。桜の木のテーブルが3つとカウンターがあるだけの店であったが、洒落た雰囲気があった。メニューはスパゲティA・B・Cの3種類で、Aはミートボール付きで、200円。Bは麺大盛りで150円。Cがレギュラーで100円。当時、東京でスパゲティが食べられる店は、他に帝国ホテルをはじめ3軒しかなく、ちなみに帝国ホテルは960円であった。100円スパゲティがアメリカ軍の新聞「スターズ&ストライプス」に紹介され、東京中の外国人が来店
「もう閉めるんですよ。いまその整理中でね……。人形とか、欲しいって人に譲ろうとか思ってるんです」。そう語るのは北海道・長万部町の『むらた玩具店』のおばあちゃんだ。昔は、子どもたちのためのくじ引き(30円)やおもちゃ、文具などをたくさん置いていたが、閉店のために整理しているという。 確かに、店内にはガランとしていて玩具店のようには見えない。くじ引きがふたつと小さなおもちゃ、おちょこ、湯呑み、そして日本人形が置いてあるだけになっている。玩具店とは思えない組み合わせだが、おちょこや湯呑みは欲しい人がいればあげようと思っているのだとか。 昔は国鉄の人も町の人も多くてすごく賑わっていたが、どんどん人が減り、もう子どもたちがいないのだという。だからお店をやっていてもお客さんがこないのだとか。かつての国鉄・長万部駅はあらゆる列車が止まるメインステーションで、まさに長万部は鉄道で栄えた町だった。しかし19
尖閣問題で、海外メディアは日本に対して予想以上に厳しい | 橘玲 公式サイトこれに対する反応を見ていたのだがシンガポールは華僑が多いから中国の肩を持つんだという意見が多かったことが引っかかっている。 確かにそういう要素もあるが、単純に人口比だけの話ではなく歴史的経緯も関わっているということを、どの程度の人が把握しているのかが気になるところだ。マレー作戦とかどの程度知られているのだろう?たしかにシンガポールは華僑が多く、中国語が公用語の一つになっている国で、シングリッシュと呼ばれる彼等の英語には中国語の影響が強く見られたりもする(OK のかわりにliao(了)が使われる等)のだが、領土問題とか戦後賠償問題とかで中国側に近い意見が出がちなのは、別の理由も存在する。 例えば1942年にシンガポールの戦い、というものがあって、その後数年間日本がシンガポールを占領して軍政を敷いていたのだけど、そのあ
昭和12年の日記も出て來たから一日づつ載っける Tweet カテゴリ☆☆☆ 前スレ昭和11年の日記出て來たから一日づつ載っける http://hamusoku.com/archives/6971788.html 1 名前:◆.AkEB6YDJI :2012/05/25(金) 17:34:46.66 ID:GJCo9SVO0 前回の昭和11年、覚えておいででしょうか 各方面から予想以上の反響があり驚いています。 予告していた昭和12年度の読み下しが完了し、またGWに現地に行って前回最後に書いた話の検証などを行ってきましたので いろいろ交えながらまた一日づつ投下していきます 2 名前:◆.AkEB6YDJI :2012/05/25(金) 17:36:43.72 ID:GJCo9SVO0 また前回接続が切れていろいろわかりにくかった節があるので酉をつけました 書き手に直接つなが
1945年5月、大分、熊本両県境に墜落したB29搭乗の米兵8人が次々と旧九州帝国大(現九州大)医学部に運ばれ、やがて死亡した。連合国軍総司令部(GHQ)が「類例ない野蛮さ」と表現した「九大生体解剖事件」。医学生として立ち会った福岡市の医師、東野利夫さん(86)は何を目撃し、何を思ったのか。「戦争は人を狂わせる。悲惨と愚劣しか残らない」。67年後の今、東野さんは改めて平和の尊さを訴える。 東野さんは1945年、同大医学部に入学。約1カ月後、配属された解剖学教室で、事件は起きた。「手術する場所を貸してほしい」。外科医から解剖学教室の教授に連絡があった。数日後、米兵の捕虜2人が運ばれてきた。麻酔がかけられ、肺の手術が始まった。透明の液体が体内に入れられたが、その液体が代用血液として試された海水だったことは後に知った。 実験手術だった。軍の立ち会いの下、4回にわたって8人に上り、うち2回を目撃。無
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