ブックマーク / finalvent.cocolog-nifty.com (33)

  • [書評] 古代スラヴ語の世界史(服部文昭): 極東ブログ

    『古代スラヴ語の世界史』は、なんだろうか、一言でいえば、「興味深い」書籍だったということになるのだろうが、そこで少し口籠るものがある。このを読むのは誰なんだろう?というような関心もわく。 ググってみた。朝日新聞に書評が載っていた(参照)。書評したのは出口治明さん。ああ、このについて、世界史の側面でこれ以上の書評が書ける人はいないだろう、と思うし、まさに、世界史的な側面においてはそうだった。ただそれでも、なんだろうか、ある種、微妙な感じもした。もちろん批判という意味ではない。 「初めに言があった」。ヨハネによる福音書の書き出しだ。言葉は文化でもある。書は古代スラヴ語から読み解く東ヨーロッパの歴史である。私たちにはなじみの薄いスラヴ人の世界がよくわかる好著だ。 古代スラヴ語とは9世紀後半から11世紀末にかけて当時のスラヴ人が文章語として聖書の翻訳や宗教的活動に用いた言葉だったという。現在

  • カール大帝は何語をしゃべっていたか?: 極東ブログ

    以前、『英語の現在完了は、なぜ、「have + 過去分詞」なのか?』という記事を書いたことがある。そのなかで、こう触れた。 カロリング朝ルネサンスというなら、その中心は、「カール大帝」である。で、「シャルルマーニュ」である。え? どっち? さすがに、Charles the Greatはなしだが、Karl der Großeなのか、Charlemagneなのか? 当然、どっちも違って、ラテン語で、Carolus Magnusとしたいところだし、公式にはそれでいいのだろうが、さて、彼自身はどう捉えていたか? というか、カール大帝は、何語を喋っていたのか? ここで、歴史好きなら知っているだろうが、カール大帝の母は誰かわかっていない。母語、mother tongueは? だが、おそらく、ここは、カール大帝の母の言葉ではなく、彼の教育係の言葉だろうし、それはラテン語だろうが、日常会話はどうだったかと

  • 最近、「あー、サイテー」と思った3つのこと: 極東ブログ

    最近、世の中のニュースで、「あー、サイテー」と思った3つのことがある。悲惨な事件ではないし、残酷といえる事件でもない。ただ、最初に、「あー、サイテー」と思ったのだった。 その感覚が自分自身にも少し奇妙な感覚でもあった。「こんなやつはサイテーだ」とそれらの事の関係者を責めたいというものでもない。なんだろうか。正義をがなり立てたいというのもない。ある湖を見て、「あー、きれー」というような、ちょっと爽快な感じに近い。まあ、3つを見ていこう。 1 昭和を感じさせるサイテーな愛媛県警の尋問 愛媛県警に誤認逮捕された女子大学生が8月1日、代理人弁護士を通じて手記を公開した。内容は、彼女が、今年1月、松山市内で発生したタクシー内の窃盗事件で誤認逮捕され、ひどい取り調べを受けたことだ。こんな感じだったという。 取調官は、私が「当の犯人を捕まえてください。こんなの何の解決にもならない。」と言えば、「犯人な

  • 黙想の祈りとテオリア: 極東ブログ

    黙想の祈り(Contemplative prayer)に関連するを読み考えながら、ぼんやりと見えてきたものがある。気にかかっているうちにブログにメモしておこうかと思う。思うままに書くのであまりまとまったものにはならないだろうが。 黙想(Contemplation)とは何か? なぜそれがキリスト教において意味があるのか? 疑問の答えとは言えないまでも、いくつか書籍を読みながらぼんやりとした形が見えてきた。逆に言うと、なぜこの疑問がこれまで自分にとって、うまく浮かび上がってこなかったか?としてもよい。それは自分が接したキリスト教からは、そもそも見えづらいものだった。私と限らず近代が結果的に覆い隠してしまった面もある。 私自身を例にすると、接触したキリスト教には三つの面があった。一つは日の近代化や敗戦に伴うプロテスタンティズムである。この伝統こそ黙想の祈りを覆い隠してしまうことが多い。クエー

  • 非モテとインセルの違いについて: 極東ブログ

    ブログを書いていると、知りもしない話題をブログ記事なんかに書くなという罵倒をもらうことがある。しばしばある。というか、この手のナイス・マウンティングは実際にはもう制度化していて、まさか罵倒している人もそうした思想制度に絡め取られているんじゃねーのといったメタ・マウンティング返しをしていると、ほらぁ、はてな的世界の螺旋地獄はとまらなくなるし、あー、ここは、はてなじゃねーよ。 と切り出したのは、この螺旋マウント地獄のノリがはてなっぽいんじゃないかと思えたこともあるが、こうした一種の対話的な機能が、はたからは地獄に見えても、他面では低能先生の実効をそれまで抑止していた対話機能なんじゃないかと思うからで、そこの点が、非モテとインセルの大きな違いなんじゃないかというのが、この記事の結論で、それだけでわかった人は以下読む必要はないんだけど。あと、この記事が何言っているのか、まるでわからないという人も

  • [書評] ポリアモリー 恋愛革命(デボラ・アナポール): 極東ブログ

    ポリアモリーについての、いわばマニュアルらしい書籍として、訳書であるがデボラ・アナポール著『ポリアモリー 恋愛革命』(参照)を読んでみた。原著は1992年のようなので、四半世紀以上前のになる。 読みやすく、しかし違和感ありまくりのだった。率直なところ、ポリアモリーについて関心をもって最初にこのを読まなくてよかったとすら思えた。が、たぶん、この違和感を、自分にとってはある種、反省的に受け止めなおすことが重要なのかもしれない。まず、想起されるのは、ポリアモリーは性的なマイノリティーともいえるので、それに対して、自分が抑圧的なマジョリティーの側の反射的な心理を表現しているのかもしれないことだ。そこは注意したいとは思う。 そのうえで、ごく基的な違和感の印象に触れてみたい。まず、同書が自己啓発書として書かれていることだ。ちょっと驚いたのだが、ウェイン・ダイアーの言葉も引かれている。ウェイン

  • [書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵): 極東ブログ

    性的マイノリティについては、自分なりに関心を寄せてきたが(なぜか自分でもよくわからないが)、「ポリアモリー」にはあまり関心なかった。というか、バートランド・ラッセルや南博とか思い出すが、20世紀初頭からある「オープンマリッジ」と同じじゃね、とか、普通の都市フランス人の生き方じゃね、くらいに考えていた。ちょっと違うかなと思いついたのは、どうも、これ米国発の運動で、日でもそうした経路で話題になってたんじゃないの、というのが気になったせいだ。手始めに、ありがちな新書でも読むかということで、『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(参照)を読んでみた。ネットのコラム記事のように軽くて、私には二人の恋人がいますぅ、みたいなノリかと思ったら、違った。難しくはないが、かなりきっちり書かれている。永田夏来さんみたいに学者さん?とか思ってその時点で著者紹介を見ると、書執筆時に博士課程にいた人であった。社会人類

  • [書評] 母性のディストピア (宇野常寛): 極東ブログ

    大著にも見える宇野常寛『母性のディストピア』(参照)の基テーマは、意外に非常に単純なものだと理解する。表題が示す「母性のディストピア」をどのように克服するか?ということだ。 ここにはだが、微妙に自明とされているだろう前提がある。「日の」ということだ。単純に言ってしまえば、書は、日論であり、戦後日論である。別の言い方をすれば、著者は嫌がるのではないかと思うが、「日はどうあるべきか」とまで還元できるかもしれない。そして、そうしてみてまず私の脳裏に浮かぶことは、その「日の」という問題フレームワークについて、「そんなのどうでもいいや」ということだ。投げやりなトーンになってしまうが、投げやりなことが言いたいのではない。「日の」を冠する問題フレームワーク自体が疑似問題ではないかと思う。なんとなれば、それは日人だけが問われているのであり、その日人は、つまるところ、この「母性のディスト

  • [書評] ソラニン新装版(浅野いにお): 極東ブログ

    『零落』と同時に発売された、11年ぶりの一編を加えた新装版『ソラニン』(参照)を読み返す前に、映画の『ソラニン』を見た。いい映画だった。そして映画としてよくできていた。俳優たちの演技もよかった。が、個人的な思いで言えば、多摩川の風景が美しかった。それは自然の美しさとは違う、ある雑然とした平凡な人に馴染むすこし汚れた生活というものの美しさで、それがこの作品とうまく調和していた。そうして風景が人々の生活のなかに潜む思いに、原作ではとても上手に、11年後に描かれた物語の前挿話としてふれている。そこに静かに感動する。じゃらーん……なんてな。 旧版のまた映画の『ソラニン』は、人々の青春の物語だろう。凡庸な人々といってもいいかもしれないが、それゆえに意味を深く持つ。逆に言うなら、特別な人々や特別な青春の物語は物語であることの要請に飲み込まれてしまって、私たちの、ただ生きていかなくてはならない生活の質に

  • 三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」発言をめぐって: 極東ブログ

    昨日ツイッターで三浦瑠麗氏が民放のトーク番組でした発言がなにやら話題になっていた。というか、問題発言だとして三浦氏への批判と取れるツイートが多かった。さて、どんな問題発言かと少し気になったのだが、話題にしているツイートがどれも二次情報であり、二次情報で盛り上がる趣味はないので、以降まだ話題が続いて一次情報が出るころ少し考えてみるかなと思っていた。で、今日それを見かけた。ハフィントンポストにあった。「三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論(アップデート)」(参照)である。 三浦 もし、アメリカ北朝鮮に核を使ったら、アメリカは大丈夫でもわれわれは反撃されそうじゃないですか。実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルと言われて、もう指導者が死んだっていうのがわかったら、もう一切外部との連絡を断って都市で動き始める、スリー

  • [アニメ] ヴァイオレット・エヴァーガーデン その0: 極東ブログ

    今季のアニメ『恋は雨上がりのように』が面白く、そして予備知識なしに数回見ただけでブログに書いてみるというも面白かったのりで、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も4回見ただけでちょっと書いてみるテスト(という表現をネットで見かけなくなって久しい気がする)。 これはもうなんの予備知識もなくいきなり見た。先入観としては、『終末のイゼッタ』を連想し、あれ、数回見て、だめだわこりゃ、と脱落したことを思い出し、まあ、これもそうなるであろうか、という感じでいた。しかし、先入観に反し、今んとこすごい面白い。放映が待ちどうしいぞ。今日か? とはいえ、世界観の設定に少し、れれれ感はあった。これ歴史物、それともファンタジー? いやそのレベルからなんも知らないで見たのだった。「ライデンシャフトリヒ(leidenschaftlich)」とか言う地名から普通に考えると、第一次世界大戦でドイツ語圏あたりだろうか。意味

  • [アニメ] 恋は雨上がりのように その0: 極東ブログ

    ノイタミナは比較的見ることが多いのだけど、今季については関心もっていなかった。が、それなりに話題を聞くので釣られて関心をもった。物語は、17歳の少女が45歳の冴えない中年オッサンに恋する話らしい。あ、パス。きんも。ということだったのだが、まあ、見た。アマゾンで追っかけで見ているので、四話まで。1クールの三分の一、しかも原作はまったく読んでいないという時点でなんかブログに書くということは、これまではしなかったのだけど、なんとなく、この時点だから書いてみたい。先の話はほとんど知らない。 あらすじ、といっても自分がわかる程度だが、人付き合いが苦手な主人公の17歳女子高生・橘あきらは陸上部のホープ(昭和語)だったが、アキレス腱を切り走れなくなり、落ち込んで佇んでいたガスト風ファミレスで店長・近藤正己バツイチ子持ち45歳に出会い、惚れる。あきらは同店でバイトをはじめ近藤にコクるが、年差もあってまとも

  • カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したこと: 極東ブログ

    ル・モンドで発表された(参照)、カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したことを、自分でも考えてみたいと思い、仮訳してみました。誤訳があるかもしれません。というか誤訳が多いかもなので、あくまでご参考までに。 《私たちは、性的自由に不可欠な、迷惑をかける自由を擁護します。》 レイプは犯罪です。しかし、しつこかったり下手くそだったりしても女の気をひこうとする行為は違反ではありませんし、女をくどくことは男性優位主義の攻勢でもありません。 ワインスタインの事件後、特に権力を乱用する男性のいる職場において、女性に対する性的暴力が法的に認識されるようになりました。それは必然的なことでした。しかし、その言論の自由は今日逆の方向を向いています。こうすべきだという口調や、むっとくる人を黙らせることを私たちに命じています。そして、そうした押し付けを拒む女性は、裏切り者だ、同罪だと見なされます! 魔女狩

  • [書評] アフター・ビットコイン(中島真志): 極東ブログ

    書名『アフター・ビットコイン(中島真志)』(参照)の含みは、「ビットコインのブームの後に起きること」ということであり、さらにそれは暗示的にではあるが、ある誘導している関心があると言ってもいいだろう。ビットコインの終焉である。ゆえに、その後に何が起きるのか、と。2017年に入りバブルの状態を見せた後、現状、バブル崩壊の兆しも伺えるビットコインが当にバブル崩壊となり、事実上通貨としては使えないという状態にまでなってしまうのだろうか。しかし、書は、バブルへの懸念に一般的な言及はしているもの、注意深く予断は避けている。では、「ビットコイン後」とは何か。何が起きるというのか。 書の明確な基調としては、ブームとしてのビットコイン現象(その呼称は書にはないが)はしだいに人々の関心が引き(加えて採掘などの原理的な限界もある)、その後には、ビットコインよりもその基技術である「ブロックチェーン技術

  • [書評] 小説 君の名は。(新海誠): 極東ブログ

    一昨日、テレビ映画『君の名は。』が放映されていた。ツイッターなどでは放映前から話題だったので、すでに映画は見ていたのだが、とりあえず録画した。CMの入るテレビ放映映画は見ないことにしているが、逆に最近はそのCMのほうが話題になったりもする。 『小説 君の名は。』(参照)も既読だった。考えてみると、ここに書評なども書いてなかった。映画についてもそうだ。映画小説も面白かったかといえば、面白かった。が、意外に難しい作品だなとも思った。 外部的な情報や文化的な文脈での批評はそれほど難しくはないだろう。が、この作品構造自体の解明はけっこう、パズルになっているのがわかるので、難しい。 パズルとして見ると組紐がキーになっていることは明瞭にわかるし、そうした明示的なキーが提示されていることも逆にパズルの真相をややこしくするだろうことも直感した。そこがどこまで解けるかが作品批評との関連を問うこともめんど

  • [書評] クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ、‎サミュエル・スターンバーグ): 極東ブログ

    [書評] クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ、‎サミュエル・スターンバーグ) 10月上旬に出版された『クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見(ジェニファー・ダウドナ、‎サミュエル・スターンバーグ)』(参照)は日の社会でどのくらい読まれただろうか。この間、ブログを事実上お休みしていたものの、気になるは読んでいた。書読後のある種の呆然とした感じは忘れられない。困ったことになったな、人類、と思ったのだ。それをいち読者としてどう表現したらいいものか、その困惑もあった。 どういうことか。言葉で説明しにくいものでもない。書の帯にあるように、書のテーマは「人類の未来を変える『技術』を開発した女性科学者の手記」ということで間違いない。基は先端科学者の「手記」であり、手記としての醍醐味は十分にある。 困惑に関連するのは、「未来を変える」の部

  • [書評] フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(香山リカ・北原みのり): 極東ブログ

    フェミニズムあるいはフェミニストについてということかもしれないが、いつもぼんやりとだが思うことがある。私が何か「彼女」と議論をすることがあるとすれば、それは最後に私がフェミニストの敵として糾弾されて終わるのだろうというある確信である。私は女性の敵なのだろうし、私は原罪のようにそうなっているのではないか。つまりその理由は私が男であるからなのではないか。あるいは、何かクレドーを希うべきだろう。 ここで私は自分自身何を言いたいのかわからなくなる。「私は男として常に女性から罪人として糾弾されるに違いない」という奇妙な確信のようなものは何に由来するのだろうか。そして、それがどこかしら後ろめたく、ゆえに表面的に女性に迎合するような主張や行動をしているに違いない、となんとなく思う。そこから先、私は密かに、私はしかし「男」だろうか?と自問する。 現実はどうか。現実としては、フェミニズムやフェミニストと議論

  • [書評] 職業としての地下アイドル(姫乃たま): 極東ブログ

    『職業としての地下アイドル』(参照)という書名がマックス・ウェーバーの主著のもじりであることはさておき、「地下アイドル」とは何か、という関心が、それを知らない人にとってこの書名でまず関心をひくところだろう。「そんなことも知らないの?」という人でなければ、「地下出版」「地下教会」というように「当局から弾圧される文化活動としてのアイドル」を連想するかもしれない。が、そうではない。 書冒頭に定義は書かれているが、いわゆるメディアに出てくる芸能人アイドルが仮想の対比としての「地上アイドル」であり、そうしたメディア的な世界から離れ、小規模のライブ活動をしているのが「地下アイドル」である。メジャー・デビューを夢見ているアイドル活動と言ってもいいかもしれないし、実際書を読むとそういう過程として「地下アイドル」が位置づけられ意識されている事例も多いこともわかる。 他方、「地下アイドル」について知ってい

  • [書評] そろそろ、人工知能の真実を話そう(ジャン=ガブリエル・ガナシア): 極東ブログ

    昨日、フランス大使館を筆頭に内閣府や森美術館が主催した日仏フォーラム「人工知能は社会をどのように変えるのか?」に参加した。終日にわたる時間を費やした内容の濃いフォーラムであった。得るものは大きかった。フォーラムの紹介文書はいまだPDF形式でダウンロードできる(参照PDF)。 また、この手のフォーラムにありがちな英語=国際語ということもなく、進行案内はすべてフランス語でなされた(ただしフォーラム司会は日語)。つまり、日語とフランス語のみのフォーラムだったのである。その点でも興味深いものだった。熱く語れるフランス語の議論を聞いていると、フランス国内ではこうした熱意で日々弁論が交わされているのだろと確信された。 このフォーラムのパネリストの一人が書の著者ジャン=ガブリエル・ガナシア教授である。発言が興味深かったので、もう少しその思索について知りたいと思っているところ、会場で同書が販売されて

    [書評] そろそろ、人工知能の真実を話そう(ジャン=ガブリエル・ガナシア): 極東ブログ
  • 「PSYCHO-PASS サイコパス」と比喩: 極東ブログ

    「PSYCHO-PASS サイコパス1」 「PSYCHO-PASS サイコパス1」を見終えた。劇場版のほうはすでに見ていたし、そこからおおよその構成は知っていた。が、アニメのほうも通してみると面白かった。まず、普通にアニメとして面白い。きれいに描けている。脚は緻密だ。しかしそれよりも、長年考えていたことの比喩をいろいろ思い出すきっかけになったことに、自分には意義があった。2のほうを見終えたからなんか書くほうがいいかもいれないとも思うが、そうこうしているとなにも書かなかったりもするので、少し触れておこう。以下、たぶん、ネタバレが含まれることになるので、ご注意。 比喩というのは、オウム真理教事件である。この事件がなんであるかについて、という話とは違う。あの事件がなんであったかは、私には今だによくわからない。ごく初歩的な事実関係ですら、よくわからない部分がある。だが大別して、二つ、ずっと思って

    「PSYCHO-PASS サイコパス」と比喩: 極東ブログ