マチと飴―松山市における飴行商をめぐる民俗誌― 宮下 毬菜 【要旨】 本研究は現在は衰退の傾向にある飴行商について、愛媛県松山市をフィールドに実地調査を行なうことにより、その実態と松山のマチに及ぼした影響を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。 1.東アジアの照葉樹林文化のなかで発達した発酵食品の技術により誕生した飴は、中国から日本へと伝来した。そして、身体によい薬として服用されていた地黄を水飴に加えた「地黄煎」が広まり、それはのちに「ぎょうせん」と呼ばれるようになる。室町時代には、天皇に仕えた供御人が地黄煎売りとして商いを行なうようになり、江戸時代になると全国各地で飴を売り歩く行商の姿が見られた。 2.松山市では飴に限らず、睦月島では反物行商、松前町では「おたたさん」と呼ばれる生魚行商もさかんに行なわれていた。しかし、流通網の発達による大型店や商店の隆盛が
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