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2013年2月7日のブックマーク (3件)

  • アジアへの恐怖がもたらしたロシアの膨張政策 ロシアと中国(1)~最初の出会い | JBpress (ジェイビープレス)

    ロシア中国という2つの国が初めて出合ったのは、今から400年ほど前の、日で言えば戦国末期の頃になる。ロシア人が支配領域を広げながら東に向かい、彼らの方からまず中国の門を叩いた。 そこから最近までの両国間の交渉史を垣間見ると、今の中ロ関係を支えたり規定したりする要素が多々浮かび上がってくる。それも、これら2国間だけではなく、ヨーロッパともアジアとも話は陰に陽につながってくる。 昨年末に誕生した日の新政権には、従来にも増してこれら両国に対して政策の歩を進めることが求められている。そのために、彼らが互いにどう付き合ってきたかの歴史をなぞってみることで、その今に到る間柄を知っておくことも幾分かの意味があるかもしれない。 ならば、そのそもそもの馴れ初めから始めてみよう。 モンゴルの支配から生まれたトラウマ 4世紀前になぜロシア中国と接するようになったのかを探るには、ロシア歴史をそこからさら

    アジアへの恐怖がもたらしたロシアの膨張政策 ロシアと中国(1)~最初の出会い | JBpress (ジェイビープレス)
  • 日本の鎖国を支えた中国の対ロシア政策 ロシアと中国(2)~最初の条約 | JBpress (ジェイビープレス)

    前回の記事はこちら コサックのペトリンが北京を訪問してロシア中国が初めて出合ってから、ほぼ20年が経った。その1636年に、満州(今の東北3省)の地に興った女真族は国号を「大清」と改めて、南の明への侵攻作戦を進めていく。 そして、同時に北方へも勢力圏を拡大して、1630年代にはアムール河(黒竜江)中流・上流での支配権を確立していた。 その頃に、このアムール河へ探検家のポヤルコフがロシアの遠征隊を率いて到達する。それに先立って彼らのコサック軍団はもっと北の地域を東に進んでいたのだが、オホーツク海が見えると東はこれで終わりだと思い込んで、目指す方角を南に変えた。その行き着いた先がアムール河である。 ロシア中国、最初の戦争が勃発 学者の調べでは、オホーツク海に出ればラッコの毛皮が手に入ることにロシア人が気付いたのは、それからおよそ100年も後のことらしい。初めからそれが分かっていたら、中国

    日本の鎖国を支えた中国の対ロシア政策 ロシアと中国(2)~最初の条約 | JBpress (ジェイビープレス)
  • 弱った相手は必ず叩く、中国から領土を大きく奪取 ロシアと中国(4)~ロシア帝国の攻勢 | JBpress (ジェイビープレス)

    しかし、60年に及ぶ乾隆帝の治世が終わる頃の1800年代初めには、その統治力には制度疲労が顕著に表れ始めていた。 領域内では、人口急増がもたらした大量の国内貧窮民が社会の不安定要因を醸し出し、あちらこちらで内乱が続発するようになる。 そして、1840年から2年間続いた英国とのアヘン戦争で、初めてヨーロッパの国家に腕力で敗北を喫する。戦闘に使われた武器(火器と艦船)の性能の差が決定的にものをいった。産業革命の威力である。 この敗北の結果、清はそれまでの原則だった海禁政策の撤廃を余儀なくされた。5つの港を対外交易のために新たに開き、香港の割譲も約束させられる(南京条約)。そして、同じような条約をフランスや米国とも締結させられた。 英国や他の国が清とこうした条約をものにするのを見て、ロシアも「この際、我々にも他の列強と同じように海上経由での通商権を寄こせ」と乗り出した。だが、これはあっさりと断ら

    弱った相手は必ず叩く、中国から領土を大きく奪取 ロシアと中国(4)~ロシア帝国の攻勢 | JBpress (ジェイビープレス)