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ブックマーク / www.tapthepop.net (40)

  • ジャニス:リトル・ガール・ブルー〜27歳で逝った女性初のロックスター真実の物語

    『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』(Janis: Little Girl Blue/2015) 日でも2016年9月に公開された『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』(Janis: Little Girl Blue/2015)は、ジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー映画。 なぜ歌いたいかって? いろんな感情を経験できるからよ。仲間とお祭り騒ぎの毎日じゃ味わえない感情を知ることができる。想像力を働かせ、真実を見出すの。音楽は感情から生まれ、感情を生み出すわ。 1967年にレコードデビューしてからわずか3年ほどの活動。彼女は1970年10月4日に帰らぬ人となった。ベトナム戦争や公民権運動、ウーマン・リブなどに揺れた激動の1960年代後半のカウンター・カルチャー=ヒッピー&フラワームーヴメントやロック・ミュージックを象徴したジャニス。女性初のロックのスーパースターのあまりにも短い生涯に迫った

    ジャニス:リトル・ガール・ブルー〜27歳で逝った女性初のロックスター真実の物語
  • 権力と恋に落ちたミック・ジャガーがチャーリー・ワッツに殴られた夜

    ミックとキースの争いを冷静に見つめていたチャーリー・ワッツ ロックスターのイメージを創り上げたキース・リャーズが壮絶なドラッグ地獄から抜け出した経緯については、『キース・リチャーズと権力との闘い〜絶望の淵で天使を見た男』に詳しいが、今回はその後のストーンズに勃発した深刻な問題とちょっとした伝説について記しておこう。 それはキースにとって「唐突な出来事」だった。1980年の『Emotional Rescue』に収録されたラストナンバーでキースが歌ったバラードの名曲「All About You」は、長年時を共にして別れたアニタ・パレンバーグへの想いを綴ったと思われていたが、どうやらキースに言わせるとミック・ジャガーとの当時のギクシャクした関係も込めたものらしい。 ショーをこのまま続ける必要があるのなら お前抜きでやっていこうじゃないか もうほとほと嫌気が差したぜ お前みたいなろくでなしに付き合

    権力と恋に落ちたミック・ジャガーがチャーリー・ワッツに殴られた夜
  • ロッカーズ〜『ハーダー・ゼイ・カム』に続くジャマイカとレゲエを描いた名作

    『ロッカーズ』(Rockers/1978) ジャマイカの心臓の鼓動をとらえたレベル・ミュージック=レゲエが、世界に放たれたのは1972年のこと。初の自国製作映画『ハーダー・ゼイ・カム』と、翌年にリリースされることになるザ・ウェイラーズの『Catch a Fire』が録音されたのだ。 ローリング・ストーンズもエリック・クラプトンもスティーヴィー・ワンダーも、この新しい音楽に魅了された。そして映画に主演してサウンドトラックも歌ったジミー・クリフや、ラスタファリアニズムやドレッドロックスを広めたボブ・マーリィらが有名になった。また、イギリスのロンドンやバーミンガムではジャマイカ移民たちをルーツとしたブリティッシュ・レゲエ・シーンが活発化。同時期のパンクやニュー・ウェイヴ(例えばザ・クラッシュやブロンデイやポリスなど)にもその影響は浸透していった。 かつてアメリカのR&Bやソウルに影響を受けながら

    ロッカーズ〜『ハーダー・ゼイ・カム』に続くジャマイカとレゲエを描いた名作
  • スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(前編)

    あなたにとって最強の3人組は? 4人組や5人組のイメージが強いロックバンドの世界。だが歴史を振り返る時、忘れてはならないのが3人組。今回は1960〜ゼロ年代に活躍したスリーピースバンドに絞って、思いつくままにラインナップしてみた。まずは前編10組を。 ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス 衝撃度という意味ではダントツか。バンド名の通り、どの映像もジミヘンが目立ってしまうが、ノエルやミッチのプレイも凄い。 Jimi Hendrix Noel Redding Mitch Mitchell クリーム ジミヘンと同時期に結成されたスーパーグループの草分け。こちらにはクラプトン。 Ginger Baker Jack Bruce Eric Clapton

    スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(前編)
  • ジョニー・ウィンターの名を有名にしたフィルモア・イーストの奇蹟

    1969年にコロンビア・レコードからレコードをリリースした白人のブルース・ギタリスト、ジョニー・ウィンター。 その契約金は当時では異例の大金で、そのことから日では“100万ドルのブルース・ギタリスト”という触れ込みで宣伝された(実際にはハーフ・ミリオン、5~60万ドルほどだったようだ)。 契約のきっかけは1968年の12月13日、ニューヨークのライブハウス、フィルモア・イーストで演奏したことだった。 この日はマイク・ブルーム・フィールドとアル・クーパーの出演が予定されていた。 2人はスティーヴン・スティルスを加えた3人で『スーパー・セッション』というアルバムを7月にリリースして話題となっていた。 元はマイクとアルの2人で制作していたという経緯もあり、この作品を発表してから一緒にライブをする機会が増えていたのだ。 そこへジョニー・ウィンターを売り込んだのがジョニーのマネージャーをしていたス

    ジョニー・ウィンターの名を有名にしたフィルモア・イーストの奇蹟
  • ロンドンのリハーサル・ルームでトシ矢嶋が聴いたクラッシュの「ロンドン・コーリング」

    カメラマンで音楽ライターでもあるトシ矢嶋は、サディスティック・ミカ・バンドを率いてイギリス・ツアーを行った加藤和彦と出会ったことから、彼の後押しで1975年にイギリスに渡った。 そして台頭してきたパンクとニューウェイブをはじめ、UKミュージック・シーンに起こっていたリアルタイムの動きを、現地からの最新のロンドン情報として雑誌やラジオを通じて日に発信していった。 その当時の写真とコラムをまとめた作品集『LONDON RHAPSODY』のなかには、初めてクラッシュに会ったときのエピソードが紹介されている。 <LONDON RHAPSODY公式ページ>https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3118311001/ 1979年6月25日の夕方、ロンドンのビクトリア駅に近いピムリコと呼ばれる地区にあったリハーサル・ルームで、トシ矢嶋はザ・クラッシ

    ロンドンのリハーサル・ルームでトシ矢嶋が聴いたクラッシュの「ロンドン・コーリング」
  • 忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”

    「ぼくの好きな〜」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。~忌野清志郎 1971年に「月光仮面」をヒットさせたモップスが、井上陽水とRCサクセションを前座に連れて全国をコンサートで回ったのは、その年の秋から翌年にかけてのことだった。 一緒にまわった忌野清志郎がその時の経験について、以下の発言を残しているのだが、自分たちのことを「ホリプロ三羽ガラス」と自称していたことには驚かされる。 テレビのオーディション番組『スター誕生!』出身の森昌子がデビューしたのは1972年の7月で、その翌年になって石川さゆり、山口百恵からなる「ホリプロ3人娘」が出揃うのは、”全国ツアーみたいなもの”が終わってから1年以上も後のことなのだ。 モップス…、そう、あの鈴木ヒロミツが在籍していたバンド。それと今、アレンジャーやってる星勝もいた。モップスは「月光仮面」がヒットしてさ、

    忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”
  • あのライヴ盤はどれだけ売れているのか〜アンプラグドで2600万枚を売ったギタリストは?

    あのライヴ盤はどれだけ売れているのか? 今回は「ライヴ盤」に絞り込んだセールスランキングをお届け。 CDが売れなくなった現在、アーティストたちのライヴに注目が集まっている。そこには一夜の夢があり、興奮があり、感動がある。ライヴアルバムに耳を傾けることは、部屋や車の中でそれをいつでも共有し、アーティストの熱い演奏や歌と一体化できる特別な時間でもある。 *セールス枚数はRIAA(全米レコード協会)などのデータ(2022年4月現在)を参考にした全米編。()内の数字はリリース年度とビルボード最高位。 【300万枚】 ○ジョニー・キャッシュ『AT FOLSOM PRISON』(1968/13位) ○ジョニー・キャッシュ『AT SAN QUENTIN』(1969/1位) ○エルヴィス・プレスリー『AS RECORDED AT MADISON SQUARE GARDEN』(1972/11位) ○アース・

    あのライヴ盤はどれだけ売れているのか〜アンプラグドで2600万枚を売ったギタリストは?
  • 松重 豊 スペシャル・インタビュー【後編】音楽好きとしての飽くなき好奇心 そして、甲本ヒロトとの友情を語る

    「超」がつくほどの音楽偏愛俳優・松重豊さん。彼がパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、TAP the POPでも紹介してきた音楽がたくさん流れていたりと、最近では珍しいぐらいに骨太な音楽番組です。 勝手にシンパシーを感じてしまったTAP編集部は、番組収録後のスタジオに直撃し、松重さんに取材を敢行! スペシャル・インタビュー後編では、フットワーク軽くライブ現場にも足を運ぶ、音楽リスナーとしての柔軟さの秘密、そして長年の友人である甲ヒロトさんとの関係について、たっぷり語ってもらいました。 松重豊 スペシャル・インタビュー前編はコチラ 取材・文/宮内 健 松重 豊(まつしげ・ゆたか) 1963年福岡県出身。蜷川スタジオを経て、映画、舞台、ドラマなど幅広く活躍する俳優。2012年に放送開始した連続TVドラマ初主演作『孤独の

    松重 豊 スペシャル・インタビュー【後編】音楽好きとしての飽くなき好奇心 そして、甲本ヒロトとの友情を語る
    akihiko810
    akihiko810 2019/01/04
    ヒロトと同い年なの…
  • 松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る

    ドラマ『孤独のグルメ』をはじめ、テレビ映画、舞台と八面六臂の大活躍をみせる俳優・松重豊さん。実は無類の音楽好きだってご存知でしたか? 松重さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、T字路s、Rei、cero、片想い、NakamuraEmi……などなど、TAP the POPでも紹介してきた気鋭のアーティストたちを次々にゲストに招き、ディープな音楽談義を展開。流行に流されない芯のある音楽を毎回たくさん紹介している、最近では珍しいほどに骨太な音楽番組なんです。 自分を育んだルーツにある音楽を大事にしながら、50代半ばを超えた現在も、新しい音楽を貪欲なまでに漁り続けている松重豊さんは、TAP the POPが考える理想のリスナー像だ! ということで、サイト開設5周年を記念してスペシャル・インタビューを敢行。ラジオ番組収

    松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る
  • イギリスでも無名だったクイーンを日本で売り出すことを決めて意欲を燃やしたプロデューサー・渡邊晋の慧眼

    Home Extra便 イギリスでも無名だったクイーンを日で売り出すことを決めて意欲を燃やしたプロデューサー・渡邊晋の慧眼 - TAP the POP クイーンが国のイギリスでデビューしたのは1973年7月だったが、シングル「炎のロックンロール」もアルバム『戦慄の王女』も、マーケットではほとんど反応がないままメディアからは酷評されてしまった。 しかしまだアルバムが発売になる直前の5月の段階で、その後の彼らの運命にも影響を与えたふたりの日人が、人たちの預かり知らないところで、日における売り出し方に思いをめぐらせ始めていた。 ことの発端となったのは拡大する日音楽マーケットに関して、渡辺プロダクションの創業者で社長だった渡邊晋と、副社長で夫人の美佐のもとへ、欧米のレコード会社や音楽出版社、アーティストのエージェントなどから様々な共同事業の提案が持ち込まれていたことだった。 渡辺プロ

    イギリスでも無名だったクイーンを日本で売り出すことを決めて意欲を燃やしたプロデューサー・渡邊晋の慧眼
  • 追悼・片山広明~「まったく、酔うとなにをするかわからないヤツだ」と言いながらも、忌野清志郎が信頼していたバンドマン|Extra便|TAP the POP

    Home Extra便 追悼・片山広明~「まったく、酔うとなにをするかわからないヤツだ」と言いながらも、忌野清志郎が信頼していたバンドマン - TAP the POP 「日テナーの片山広明が亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。」という情報が、地底レコードのホームページに掲載されたのは11月12日のことだ。 日の朝だったそうです。最後は地底レコードでCDをリリースしていました、RCサクセション・渋さ知らズでも活躍したSAXの片山広明が亡くなったとの情報を夕方に知りブッタマゲました。 長年の酒の飲み過ぎでの肝不全ですね。キヨシローさんが亡くなる前に死んでいても不思議はなかった片山さんですが、肝硬変が悪化して遂にというかそりゃそうだろと思うぐらい悪くなっていたようですね。 病院を変えて検査を充実させたり、手術をしたり良くしようとは努力していた様子はみてとれましたが、昨夜に具合が悪くなり

    追悼・片山広明~「まったく、酔うとなにをするかわからないヤツだ」と言いながらも、忌野清志郎が信頼していたバンドマン|Extra便|TAP the POP
  • 追悼・ジェフ・エメリック~ビートルズが求めていたサウンドを作ったのは19歳のエンジニアだった|Extra便|TAP the POP

    ビートルズの最初のアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』から『ラバー・ソウル』までを手がけてきたのは、英国EMIの技術部門に勤務するエンジニアのノーマン・スミスだ。 そしてノーマンが1966年に昇進が決まってレコーディング現場を離れることになった時、後任として白羽の矢が立ったのはまだ19歳のジェフ・エメリックである。 1962年に16歳でEMIに入社したジェフは偶然だが、その年の秋に行われたビートルズのファースト・レコーディングに、アシスタントとして立ち会っていた。 ジェフが所属していた技術部門の管理者はその後、実験的なサウンドに挑んでいたプロデューサーのジョージ・マーティンと、飛ぶ鳥を落とす勢いのビートルズのもとへ、経験はないが鋭い耳を持っていたジェフを推薦するという賢明な判断を下す。 そしてジェフは1966年4月に始まったアルバム『リボルバー』のレコーディングから、チーフ・エンジニアとし

    追悼・ジェフ・エメリック~ビートルズが求めていたサウンドを作ったのは19歳のエンジニアだった|Extra便|TAP the POP
  • ジョー・ストラマー特集

    ジョー・ストラマーがクラッシュのフロントマンとなったのは、ロンドンでパンクが大きなムーヴメントとなりつつあった1976年のことでした。 真剣に音楽で世界を変える、という強い信念と野望とともに、バンドはイギリスを代表するバンドの一つにまで成長していきます。 しかしジョーはどれだけ有名になろうとも決してスターの座に就こうとはせず、常に労働者階級の側に立とうと苦心していました。 クラッシュ解散後の活動はしばらく映画関係が中心となりましたが、90年代に入ると再び音楽活動が盛んになり、2002年に亡くなるまで精力的にメッセージを放ち続けました。 その真っ直ぐな言葉、音楽、そして生き方は、今も多くの人たちを惹きつけてやみません。 ほんの一部ではありますが、今一度、彼の音楽やメッセージに触れていただければ幸いです。

    ジョー・ストラマー特集
    akihiko810
    akihiko810 2017/12/23
    クラッシュ
  • キース・リチャーズと権力との闘い〜絶望の淵で天使を見た男

    キース・リチャーズ(Keith Richards)と1970年代 キース・リチャーズにとって1970年代のある時期は、音楽よりもドラッグが中心の生活だったに違いない。 ローリング・ストーンズが70年代に発表したスタジオアルバムがすべてチャートの1位を記録したことも凄いが、9日間一睡もしなかったというコカイン最長覚醒記録や、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌の「次に死にそうなロックスター」ランキングで10年連続1位という大記録も所持している。トップから落ちた時はがっかりして人はこんなジョークを飛ばした。「しまいには9位まで落ちた。何てこった、もう死にたくなったぜ」 キースのドラッグ生活は、警察との闘いの日々でもあった。キース自身の言葉を借りるなら、それは「権力vs庶民」ということになる。ロックスターのイメージを創った男としての責任感だろう。彼は世界中のファンの「行け! キース!!」的な期

    キース・リチャーズと権力との闘い〜絶望の淵で天使を見た男
    akihiko810
    akihiko810 2017/10/24
    キースはプライベートなレコーディングを行う。これが伝説の“トロント・セッション”だ。http://55monkey55.blog.fc2.com/category5-4.html
  • ロバート・ジョンソンの“クロスロード伝説”や“悪魔との契約説”はなぜ広まったのか?

    Home Extra便 ロバート・ジョンソンの“クロスロード伝説”や“悪魔との契約説”はなぜ広まったのか? - TAP the POP ロバート・ジョンソンのクロスロード伝説と悪魔との契約説 デルタ・ブルーズマンのサン・ハウスが、ウィリー・ブラウンらと組んでジューク・ジョイントを回っていた1930年代初頭のある土曜の夜のこと。一人の少年が何度も自分を見に来ていることに気づく。少年はギターを弾きたがっていて、両親が寝静まった後、窓からこっそり抜け出して3人の演奏を聴きに来ていたのだ。 休憩の時間になると、俺たちはギターを置いて外に出る。夏の間は無茶苦茶な暑さだから、身体を冷やしてたわけだ。で、俺たちのいない隙に、あいつはギターを持ってジャカジャカやりだすのさ。やたらうるさいだけだったから、それを聴かされる客はたまらない。「あんたでもウィリーでもいいから、あのガキをやめさせてくれないか。みんな

    ロバート・ジョンソンの“クロスロード伝説”や“悪魔との契約説”はなぜ広まったのか?
  • 今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集

    1989年4月にデビュー。6年2ヶ月という短い活動期間ながら、日のロックに衝撃を与えたボ・ガンボス。1995年6月にバンドは解散、2000年1月にはボーカルのどんとも他界してしまいましたが、彼らの音楽は今もなお色褪せない輝きとメッセージを放ち続けています。 デビュー25周年を記念し、TAP the POPではどんとの20回目の命日でもある2015年1月28日から特集としてコラムを集中連載しました。 1989年のボ・ガンボスにフォーカスを絞った記事や、当時の活動を振り返る関係者へのインタビュー、またボ・ガンボスの音楽やどんとの綴ってきた歌が次の世代にもたらした影響など、さまざまな角度からバンドの魅力を切り取っています。豊富なライブ映像とともに、ボ・ガンボスの世界にぜひ触れてみてください。

    今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集
    akihiko810
    akihiko810 2017/08/08
    1989年4月にデビュー。6年2ヶ月という短い活動期間ながら、日本のロックに衝撃を与えたボ・ガンボス。1995年6月にバンドは解散、
  • はっぴいえんど特集~全員の演奏能力がずば抜けていたスペシャリスト集団

    実質的には3年という短い活動期間でありながら、日のロック黎明期を代表するバンドとして、はっぴいえんどは今なお大きな影響力を持って語り継がれています。 メンバーは細野晴臣、大瀧詠一、松隆、鈴木茂。彼らは全員の演奏能力がずば抜けていた、スペシャリスト集団でもありました。 1972年12月31日、はっぴいえんどは正式に解散しています。 そこから4人は互いに連携をとりつつも別々に活動するなかで、全員がそれぞれの道で大きな成功を収めることで、日音楽史に語り継がれる功績を残すことになったのです。 しかしそれは決して、はっぴいえんどで得た名声のおかげではありません。 というのも当時のはっぴいえんどは、ごく一部の熱心な音楽ファンに認められてはいたものの、レコードがそれほどヒットしたわけではなかったからです。 はっぴいえんどが解散後に評価されるようになったのは、彼らがトライしてきた日の新しい音楽

    はっぴいえんど特集~全員の演奏能力がずば抜けていたスペシャリスト集団
  • ジョン・レノンの直感がもたらしたレコーディング技術によって完成した「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」

    Home TAP the SONG ジョン・レノンの直感がもたらしたレコーディング技術によって完成した「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」 - TAP the POP 1966年の9月初旬からビートルズのメンバーはソロ・プロジェクトに挑戦しはじめたので、滅多に顔をあわせることがなかった。 しかし再集結して新しいアルバムのレコーディングに取りかかろうと、11月24日の夜にアビーロード・スタジオにメンバーが集った。その日のレコーディングではジョンが、新曲をアコースティック・ギターで歌ってみせた。 ジョージ・マーティンが著書のなかで初日の印象と、28日と29日にまで続いたレコーディングの経緯を記している。 それは当に美しい歌だった。 それから私たちはリンゴのドラム、ポールのベース、ジョージのエレキ・ギターを交え、試しにその曲を演奏してみる。 その曲は私が初めて聴いた時の穏やかな感じとは違

    ジョン・レノンの直感がもたらしたレコーディング技術によって完成した「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」
  • 濃霧に包まれた中でピンク・フロイドが「原子心母」を演奏した箱根アフロディーテ

    ”ロックは英語で歌うべきか、日語で歌うべきか”という論争が起こっていた1970年から71年にかけて、”ほんもののロック”を目指したロック・コンサートが、様々な会場で行われていた。 そんな中でウッドストック・フェスティバルにならった野外ロックフェスを開こうと、1971年8月6日と7日の2日間、ニッポン放送の主催で「箱根アフロディーテ」というイベントが実現した。 箱根芦ノ湖畔にある成蹊大学所有の敷地に、特設ステージが組まれたこのイベントの目玉はプログレッシブ・ロックの雄、初来日するピンク・フロイドであった。 邦題のネーミングのユニークさもあって、前年に出たアルバム『原子心母』が大ヒットしたピンクフロイドが、日でどんなライブを見せてくれるのか、ロックファンの期待は大きかった。 しかもイベントの3週間前、7月17日には激しい雷雨によって伝説となったグランド・ファンク・レイルロードの後楽園球場公

    濃霧に包まれた中でピンク・フロイドが「原子心母」を演奏した箱根アフロディーテ