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戦争に関するanimistのブックマーク (109)

  • 戦場ジャーナリストと自己責任 – mhatta's mumbo jumbo

    シリアで長年武装勢力の人質になっていたジャーナリスト、安田純平氏が解放されたというニュースを受けて、日のマスメディアでは様々な論評が出ているようだ。個人的には、毎日新聞の記事「<安田さん解放>『自己責任論』に海外経験者ら反論投稿」に違和感を感じた。 というのも、記事に「識者は『海外では唱えられることのない自己責任論が蔓延している状況を懸念」とあるのだが、拘束された戦場ジャーナリストに対し、自己責任の観点から批判が浴びせられることは海外でも決して珍しくないと思われるからである。ついでに言えば、この記事に出てくる人々は別にそんなこと言ってないような…。 例えば、アフガニスタン紛争では多くの欧米ジャーナリストが拉致、拘束されたが、2009年9月には、ニューヨーク・タイムズ紙に所属するイギリス人ジャーナリスト、スティーヴン・ファレルがタリバーン兵士に拘束されるという事件があった。4日後、イギリス

    戦場ジャーナリストと自己責任 – mhatta's mumbo jumbo
  • 靖国神社トップが天皇陛下を批判か 「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてる」と発言|ニフティニュース

    靖国神社のトップである小堀邦夫宮司が「教学研究委員会」で驚きの発言をした 天皇陛下の慰霊の旅について「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ」と語った 発言は靖国神社内でも問題視され、宮司として問題ではないかという声が上がったそう

    靖国神社トップが天皇陛下を批判か 「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてる」と発言|ニフティニュース
  • もう一つの「この世界の片隅」に集まる注目 ある女性が編んだ広島・原爆の現実(石戸諭) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    戦争の記憶が生々しく残る戦後20年目(1965年)の夏、ある女性が中心になって一冊のが世に送り出された。 作家・山代巴(2004年に死去)が編者となり、あの日からの広島を生きる人々の声を集めたルポルタージュ『この世界の片隅で』(岩波新書)だ。 有名とは言えない山代のが、いま話題のこうの史代さん『この世界の片隅に』を連想させるタイトルになっている。えっと驚く読者も多いだろう。 同書は2017年に異例の復刊が決まる。こうの作品との関連で注目されたからだ。山代は「この世界の片隅」からどんな言葉を拾い上げ、後世に残そうとしたのか。 こんな言葉が書かれている。「たいていのものは話半分だが、あれだけはかならず話のほうが小さい」。きょうは73回目の広島・原爆の日――。 復刊された『この世界の片隅で』(筆者撮影)いま注目される山代巴とはどんな人物なのか? そもそも、山代巴とはどんな人なのか。評伝や論文

    もう一つの「この世界の片隅」に集まる注目 ある女性が編んだ広島・原爆の現実(石戸諭) - エキスパート - Yahoo!ニュース
  • 草が食糧…? 太平洋戦争「初夏の決戦生活」は驚くほど悲惨だった(辻田 真佐憲) @gendai_biz

    「夏の七草」をご存知だろうか。アカザ、イノコヅチ、ヒユ、スベリヒユ、シロツメグサ、ヒメジョオン、ツユクサの7種である。 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの春の七草や、ハギ、オバナ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウの秋の七草にくらべ、夏の七草はまったく知名度がない。 それもそのはず、夏の七草は、アジア太平洋戦争末期の1945年6月、日政府の広報誌『週報』において発表されたものだったからだ。 つまり夏の七草とは、土決戦のための糧だったのであり、それゆえ敗戦とともに忘れ去られてしまったのである。 日のメディアの戦争特集は毎年、3月の東京大空襲(名古屋、大阪も)、4月の沖縄戦開始から、8月の終戦までの間がやや手薄になる。しかし、当に身につまされる「決戦生活」は、初夏のこの時期にこそあった。 戦争末期の『週報』は、プロパガンダ誌ながら、その悲惨な

    草が食糧…? 太平洋戦争「初夏の決戦生活」は驚くほど悲惨だった(辻田 真佐憲) @gendai_biz
  • 沖縄県じゃない基地住民の話も聞け!(古谷有希子) - 個人 - Yahoo!ニュース

    沖縄知事選が近づいている。 前回の翁長知事死去に関する記事でも触れたが、私が注目している選挙の争点はやはり辺野古基地問題だ。 私が沖縄の基地問題に関心を寄せるのは、私自身が神奈川で在日米軍の近くで育ったからだ。 多くの日人にとって、基地問題は「沖縄固有の問題」だろう。 だが、実際には沖縄以外にも米軍基地は存在する。 米軍基地が最も集中しているのは沖縄で、在日米軍基地面積の70.38%を占めている。 次に集中しているのは青森県で8.98%、そして神奈川県の5.58%である。 基地の近くで育つというのは、それだけでも考え方や生き方に影響を及ぼす。 翁長氏により「後継者」として指名され、今回の知事選に出馬する玉城デニー氏のインタビュー記事でも、米軍人の父親のことや、基地近くでの生い立ちについて語られている。 こうした「基地」との関わりの深い生い立ちも、玉城デニー氏が政治の道に進むきっかけとなっ

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  • 大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    【読売新聞】 8月15日は終戦の日。先の大戦での軍部の独善・ 欺瞞 ( ぎまん ) の象徴として語り継がれるのが「大営発表」だ。当時、最高レベルのエリート集団だった大営はなぜ、繰り返しウソの戦果を並べるに至ったのか。真相を探ると

    大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 「俺もうアカン」同窓生が見た涙 エースだった特攻隊員:朝日新聞デジタル

    特攻隊員の伯父は死を前に何を思ったのか――。神戸市東灘区の前田優子さん(61)は、旧制神戸一中(兵庫、現神戸高)の野球部エースで伯父の島澄夫(すみお)さんの追悼をある縁から受け継いだ。知れば知るほどに、若くして伯父を死へ追いやった戦争への怒りがこみあげてくるという。 前田さんは今年3月、自宅を整理中に書類が詰まった段ボール箱から祖母の島貞子(ていこ)さん(1983年死去)の日記を見つけた。 原稿用紙などに書かれたその日記の1枚に、貞子さんの次男で、前田さんの伯父にあたる澄夫さんが特攻隊で出撃したと知らされた日のものがあった。 沖縄戦のさなかの45年4月9日付。「遂(つい)に恐れていた日は来た」。新聞が報じた出撃者に澄夫さんの名があったと町内会長が知らせに来て、「一瞬目の前が真っ暗に」なり、「終日こみ上げる悲涙をおさえられず」と書かれていた。 のちに当の出撃は16日と判明。記事は出撃拠点の

    「俺もうアカン」同窓生が見た涙 エースだった特攻隊員:朝日新聞デジタル
  • 原爆下の対局 - Wikipedia

    第3期因坊戦第2局の106手目までの図。白番の橋因坊fは106手目を打って勝利を確信した。この後十数手打たれて8月5日は打掛となった。翌8月6日対局再開後に原子爆弾が爆発した。 原爆下の対局(げんばくかのたいきょく)は、1945年(昭和20年)8月6日に行われた囲碁の第3期因坊戦第2局のこと。対局者は橋宇太郎因坊と挑戦者岩薫七段(いずれも当時)。この対局は広島市郊外の佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区吉見園)において行われた。対局中にアメリカ軍の広島市への原子爆弾投下があり、対局者が被爆したことで知られる。原爆対局(げんばくたいきょく)、原爆の碁(げんばくのご)ともいう。 対局が行われていた五日市町吉見園は爆心地から8キロメートルほど離れていたものの、爆風により障子襖などが破壊され対局は一時中断された。混乱はあったが午前中に対局は再開され、原爆投下当日中に終局して白番の橋因坊

    原爆下の対局 - Wikipedia
    animist
    animist 2018/08/06
    原爆の降ってくるようなとこでも対局してたのか…
  • 京都新聞|特集アーカイブ 第2部「小さな命に寄り添って」

    【京アニ公判第15回⑦精神鑑定医へ弁護側・検察側からの質問】「白黒は付けがたいが、作品が盗まれたというのは落選の前にも後にも思っていた」

    京都新聞|特集アーカイブ 第2部「小さな命に寄り添って」
  • Keep Calm and Carry On - Wikipedia

    "Keep Calm and Carry On" のポスター Keep Calm and Carry On (キープ・カーム・アンド・キャリー・オン、平静を保ち、普段の生活を続けよ)とは、イギリス政府が第二次世界大戦の直前に、開戦した場合のパニックや戦局が悪化した場合の混乱に備えて作成した、国民の士気を維持するための宣伝ポスターである。限られた数しか用いられなかったため、大戦当時はほとんど知られることがなかった。 このポスターは2000年に再発見され反響を呼び、多くの民間企業からポスターが発行された。小物や衣服の装飾モチーフとしても用いられるようになった。テレビの鑑定番組のアンティークス・ロードショーで、ロイヤル・オブザーバー・コー(イギリスの民間防衛組織)の一員だった人物の娘が20枚のポスターを持ち込むまでは[1][2]、政府が保管しているものを除けば2枚が残存しているだけだった[3]。

    Keep Calm and Carry On - Wikipedia
  • これだけ読めば戦は勝てる - Wikipedia

    『これだけ読めば戦は勝てる』(これだけよめばいくさはかてる[1])は、1941年に大営が発行した、台湾軍 (日軍)研究部(第82部隊)の研究成果をまとめた小冊子。上陸作戦と熱地作戦を特色とした南方作戦での戦闘方法や、作戦地域となる南方諸国の軍事事情・兵要地理、兵器・給養・衛生等の調査研究結果を主な内容とし、太平洋戦争の開戦時、南方作戦のため各地へ向かう輸送船に乗船する将兵に配布された。ノモンハン事件以降顕在化していた兵器・装備面での劣勢への言及を忌避し精神的要素を強調する視点や、捕虜の取扱いや国際法の遵守に言及がないことが特徴として指摘されている[2]。 台湾軍研究部[編集] 1940年12月25日、大営は、上陸作戦と熱地作戦を特色とする[3]南方作戦の準備のため、現地での研究機関として台湾軍司令部内に研究部を設置し[4][5]、翌1941年1月18日に、同研究部に対して、南方作戦に

    animist
    animist 2017/06/20
    読んでしまった…辻政信やっぱり一種の天才だわ。
  • 「我々日本人の先人は、国や家族を守るため、命をかけて戦った」という思い込みに対する簡潔な批判 - 村野瀬玲奈の秘書課広報室

    社員一人のサイバー政治団体(笑)「世界愛人主義同盟」秘書課勤務、村野瀬玲奈オフィシャルブログ。日政治は消費税増税・震災復興増税を福祉にも被災者にも使わず、雇用と社会保障を弱体化させるだけ。日政治の何が間違いなのか過去の失敗と国際的歴史に学んで、議員や政治やマスコミに意見を届けましょう。

    animist
    animist 2017/04/24
    本当は国と称した政府とその繋累を守るために戦ったのであり、自己の家族を守るために戦えた人は限られていたよね。庶民の家族を守る為の戦いが本当の目的だったらサイパンにバンザイクリフなんて地名が残るはずない
  • 戦時中、和菓子屋の名前に変えさせられたケーキ屋さん 「本当に悔しかった」

    Search, watch, and cook every single Tasty recipe and video ever - all in one place! News, Politics, Culture, Life, Entertainment, and more. Stories that matter to you.

    戦時中、和菓子屋の名前に変えさせられたケーキ屋さん 「本当に悔しかった」
    animist
    animist 2017/04/03
    こういうのが忖度の結果として現れてくる社会ほんとひで
  • 「実際のところドイツ軍慰安所ってどうだったの?結構えげつないことしてたみたいだけど・・・」 ドイツを見習え!でお馴染みのドイツに学ぶ戦時性暴力問題

    ラム・マイヤーズ@旧アカ @Avengers_tokyo ネットで見ることができる範囲で、ドイツ軍慰安所に関する記述をまとめたんだけど、まぁ酷いもんだ。「お前それ軍による強制連行やんけ。」「なんで問題になってないの?」多くの人はそう思うだろう。 2017-01-31 00:35:34 まとめ 私が慰安婦問題で覚えた違和感~「強制連行は論点ではない」「他国の例を批判しても日の罪は消えない」の一点突破で、直接.. 良識派は「国際社会で強制連行の有無は論点になっていない」といいます。 返す刀で「そんなことに拘る人間は人権意識の低い馬鹿なネトウヨだ」と罵ります。 しかし、慰安婦問題は、最早お利口な「国際社会」だけで語られる話ではなくなってしまいました。 偏狭なナショナリズムを煽り、慰安婦問題の解決を阻害するような動きや団体に対しても、 「韓国の問題だから日人が知る必要はない」となぜだか寛容です

    「実際のところドイツ軍慰安所ってどうだったの?結構えげつないことしてたみたいだけど・・・」 ドイツを見習え!でお馴染みのドイツに学ぶ戦時性暴力問題
  • 玉砕 - Wikipedia

    玉砕(ぎょくさい、旧字体:玉碎)は、玉のように美しく砕け散ること、指導層が提唱する大義、名誉などに殉じて潔く死ぬこと[1]。大東亜戦争の前線で日軍部隊が殲滅[注釈 1]されたことを表現する言葉として大営発表で用いられた。対義語は、瓦全(がぜん)、甎全(せんぜん)で、無為に生き永らえること[2]。中国の古書『北斉書』の「元景安伝」中の記述「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(勇士は瓦として無事に生き延びるより、むしろ玉となって砕けた方が良い)」を語源とする。 「玉砕」、「瓦全」という言葉は、唐代に編纂された東魏(534~550年)から北斉(550~577年)にかけての歴史を記した正史『北斉書』の列伝第三十三(元景安)に見える[3][4]。同書によれば、故事は以下のとおりである。 元景皓と元景安は、北魏の帝室「元」氏の血を引くいとこ同士であった(「景」が輩行字)。北魏が滅び、高洋が即位して北斉を建てる

    animist
    animist 2017/02/12
    誰かが掲げた美辞麗句に殺されるのはヤだな。自分が同意している場合は除き。でも、アッツ島の守備隊とかに居たら、陛下の御為、草生す屍になる覚悟を固めざるを得なかったかも知れんわ
  • さようなら、オバマ「あなたは史上最悪の爆弾魔でした」

    言ってたこととやってたことが違う つい先日、バラク・オバマ前大統領がこの2年間で5万発近い爆弾を世界中でばら撒いたことが、米外交問題評議会のサイトで明らかにされた。2016年は2万6171発、15年は2万3144発を投下した。1回の爆撃で複数の爆弾が落とされることや、発表されている国々以外への投下を考えれば、より増える可能性は高い。 英国の調査報道ジャーナリスト協会のまとめでは、ブッシュ政権の8年間でパキスタンにおける無人機攻撃は51回、民間人を含む死亡者は少なくとも410人であった。一方、オバマ政権では373回、2089人となっている。イエメンやソマリアを追加すればさらに増える。 これらの無人機による攻撃では、いくつかの問題も指摘されている。 第1に法的根拠である。他国内で警告や裁判なしに不十分な確認で、ミサイルを撃ち込み「処刑」していることが問題視されているのである。オバマ政権の当局者

    さようなら、オバマ「あなたは史上最悪の爆弾魔でした」
  • 独ソ戦 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年2月) 独ソ戦(どくソせん、英語: German-Soviet War)、または東部戦線(ドイツ語: die Ostfront)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。 独ソ戦

    独ソ戦 - Wikipedia
  • リディア・リトヴァク - Wikipedia

    ユダヤ人の家庭に生まれた[8][9][10][11]彼女は、幼い頃から航空学に親しんでいた。14歳のときに航空クラブへ入り、翌年にははじめて飛行機に乗って空を飛んでいる。ヘルソン飛行教官航空学校を卒業後、1930年代後半には教官の資格を得てカリーニン航空クラブで働く。 1941年6月独ソ戦が開始され、リトヴァクは航空部隊へ入隊しようとするが、経験の不足により拒絶された。しかし意図的に大戦前の彼女の飛行時間が100時間を越えていると水増しされたうえで、リトヴァクは全成員が女性の第586戦闘機航空連隊へと配属されることになる。マリーナ・ラスコーワによって組織された部隊であった。彼女はそこでYak-1の搭乗経験を積む。同連隊で、配属された女性飛行士全員が髪を切るように命じられた際、リトヴァクは最後の一人になるまでそれに抗った[12]。 1942年の夏、サラトフで彼女は初空戦を行い、9月には第43

    リディア・リトヴァク - Wikipedia
  • スターリングラード攻防戦 - Wikipedia

    スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。 スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。 緒戦は枢軸軍側の優位に

    スターリングラード攻防戦 - Wikipedia
  • 真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」

    ハフポスト日版ニュースエディター 特集「#だからひとりが好き」ディレクター News Editor, HuffPost Japan 7th December 1941: The USS Arizona sinking in a cloud of smoke after the Japanese attack on Pearl Harbor during World War II, Hawaii. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)

    真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」