リクエストがあったので、ニューヨーク州(半分以上は市)のデータから、東京都の推定などに使ったのと同じ推定モデル、同じパラメーター暗数7割と回復率γを仮定して*1、(a)3月1日から4月4日までの1ヶ月ちょっと、(b)3月1日からの1週間、(c)4月4日までの1週間の3種類のR₀の推定と、最後の(c)のR₀(に従うβ)をパラメーターにとる4/4からのSIRモデルによる予測を描いてみた。 まずは、(a)3月1日から4月4日までの1ヶ月ちょっとだが、指数分布に従わないプロットになっている事が分かる。初期の急増に対して慌て、次々にうった感染防止策がある程度機能していることを意味する。なお、感染から発症までが5日間、重症化するまで7日間と言われるので、横軸の日付の12日ぐらい前の状況を見ている。
感染者数の増加で、欧米の一部の都市でとられているタイプの“ロックダウン”を東京でも実施すべきだと言う声が大きくなってきた。疫学者も少なくとも一つのチームはそう主張している*1。しかし、(1)現状の感染パターンからは大きな効果を望めないし、(2)失業者のさらなる増加*2や学業の阻害になる*3一方で、(3)ロックダウンの解除後に感染者の増加ペースが元に戻る可能性がある。 都市のロックダウンは明確な定義が無い言葉なのだが、ここではライフラインを維持する職種以外の一般市民は、食料の買い出し等以外は自宅に引きこもることを、武漢ほどでなくても欧州ぐらいは強制する施策だと考えよう。日本の政府や地方自治体がこのロックダウンを実施する根拠法はまだ無いが、そこは公共の福祉を重視する憲法解釈を行って立法すればよいのでここでは考慮しない。 効果は怪しい。今まで報道されてきた感染クラスターの多くは医療や介護などの場
コロナウイルス感染症(COVID-19)だが、直近1週間のデータからSIRモデルで推定すると*1、11月24日に感染者数が全国民の18%とピークを向かえ、2割の446万人が入院する必要が出てきて、3%の67万人が酸素吸入以上のケアが必要になり、さらに収束するまで1年半かかり、重症者の累計は314万人に達する*2。単純な数理モデルで精確かは分からないが、欧米の惨状を見る限りは全くの計算違いとは言えない。 病床不足は避けられないので、もう軽症者は自宅療養するように方針を変えるか、軽症者用の隔離施設を確保すべき。そして、何とかトレンドを変える必要がある。クラスター対策班は今まで効果を挙げてきたが、だんだんとすぐに感染経路が追跡できない感染者が増加しており*3、現在の活動の継続だけでトレンドが変わる可能性は低い。感染から発症まで5日間、症状が重くなって病院に来るまで7日間程度かかるため、トレンドが
民主国家の一般市民は、統治形態が民主制度であるべき理由をどこまで説明できるであろうか。民主制度を肯定できたとして、なぜ複数の民主国家が統合されずに共存しているのか、その理由を説明できるであろうか。昨年、文庫化されたデイヴィッド・ミラー『はじめての政治哲学』は、こういう現代の民主国家の政治制度を肯定的に説明してくれる本だ。網羅的に政治哲学者を紹介していくような教科書ではなく、読み物になっている。 哲学といっても用語定義が洗練された政治の説明であって、認識論や存在論のようなどう接すればいいのか分からない変態的な議論が展開されるわけではない。最初になぜ政治哲学が必要なのかと言う問いを立ててから、政治的権威、デモクラシーと言う古典的なトピックを説明し、自由と統治の限界、正義と言う近代的なトピックを説明し、フェミニズムと多文化主義、ネイション・国家・グローバルな正義と言う現代的なトピックを説明してく
感染経路不明の国内発症者が出てウイルス対策の第3フェーズに入った新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)*1騒動なのだが、ダイヤモンド・プリンセス号の扱いなどで政府対応に疑問をもたれている。神戸大学教授の岩田健太郎医師が、強引に同船に潜入した上で船内の防護体制の不備を告発しだす*2など政府対応に非難が増しているのだが、現在進行形で進む対応自体よりは、事前の計画が不十分であった事の方が問題だ。 1. 外部専門家のアドバイスを即時消化反映するのは無理 現在の行政の対応に不備があるのは間違いない。陸に乗員・乗客を収納できる施設がないので、船内に留めて経過観察をし、新たな発症者が出なくなったら下船させる思惑であったと思うが、船内で新たな発症者/感染者が出てしまって*3、なかなか乗客を降ろせなくなったように見える。少なくとも、検疫官や救急隊員、災害派遣医療チーム(DMAT)など救護側に感染者が出た
数学検定を御存知であろうか。「9歳で理数系大卒レベルの数学検定1級合格!」と言うニュースではじめて存在が知られる程度の実用数学技能検定だ。経団連が近年、大学生は全員、数学を学ぶべしと主張しているので、加盟企業の新卒採用でこの数学検定を評価してやることで数学学習を促せばよいと思っているのだが、出題を確認していなかったので公開されている過去問を見てみた。 なんと第1問が連分数。今までの人生、ほとんど縁が無い。何回かは何かの話で見かけるのだが、入れ籠構造の分数という極めて浅い知識で満足していた。さて、これ、どうやって解くんだっけ? — 整数部分が0, 2, 3, 2, 3, …と繰り返し部分がn回続く有限連分数だとすると、以下のように行列の乗算で分子と分母の値を同時に計算することができる話を見かけたのを思い出す。
「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵に関するシェイクスピアを専門とする文学研究者の北村紗衣氏の言及に関して、吉峯耕平弁護士が批判していた*1ことなどに対し、北村氏が反論を行っている*2ので拝読してみたのだが、日本赤十字社の血液製剤の安全性と品質の向上に勤めるという理念が、帰結を重視していることを理解できていないのが気になった。北村氏も帰結に影響はないと認めているわけで、話題のポスターが日赤の理念に反するとは言えない。 1. 日赤の理念は帰結を問題にしている 北村氏も日本赤十字社が「献血する人、輸血を受ける人の両方を守るため、献血する人の自発性を尊重する高い倫理基準にもとづいて運営されています」と言及しているのだが、日赤の理念は帰結を問題にしている。日本赤十字社の基本理念とグラウンドデザインを見ると、血液製剤の安全性と品質の向上に勤めるとあり、そのために国際輸血学会(ISBT
人事にしろ投資にしろパフォーマンスは評価せざるをえないし、客観的に見える測定基準の指標に頼ってしまうのが世の常だ。しかし、往々にして指標をつくるためには時間も労力がかかるし、指標を報酬や罰則に連動させると評価される方は組織の目標と乖離した結果になっても指標にあわせて行動を最適化しだす傾向がある。 『測りすぎ—なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』は、経済学者でもなく社会学者でもなく何故か歴史家がこういうあるある失敗メカニズムについてまとめて総括した本になる。売り文句通り、パフォーマンス評価の基準をつくる経営者や管理職、行政の偉い人々は一読する価値があると言うか、3回ぐらい読み返して欲しい。 本書は、測定の誤った運用になるパフォーマンス評価がなぜ横行しだしたのか、それがどのような理屈でどのような弊害を引き起こすのか、実際にどのような弊害が生じたのかを説いた上で、測定基準の導入で失敗しないよ
対日批判を続けてきた韓国の文在寅大統領だが、2019年8月15日の光復節のスピーチではそれをトーンダウンさせ、日本が対話を望めば「喜んで手を結ぶ」 と柔軟な態度を見せた。しかし、日韓請求権協定に規定された、日韓で協定解釈が異なったときの対話手段である仲裁委員会の設置については拒絶し続けているし、日本国民を挑発するかのように、福島第一原発の災害・事故から8年以上経った今頃になって、日本産食品の放射線検査強化をはじめたり*1、韓国も海洋投棄を行っているトリチウムの廃棄に関して日本政府に説明を求めだしている*2。昨日はとうとう、GSOMIAの破棄を決定した。文在寅政権は、一体どうしたいのであろうか? 1. 文在寅氏は反日・親北・親中ではない 文在寅氏が反日・親北・親中と判断している人々が多いわけだが、そういう行動原理ではない。筋金入りの反日家族と言うわけでもない*3し、北朝鮮からの反応を計算して
韓国に限らず地域研究全般に言える事だとは思うが、韓国政治の研究者は日韓の相互理解を深めて日韓関係を良好に維持したいと願っているもので、日韓の軋轢に対して否定的な感情を抱いてしまい、直観的にネガティブな評価を下し、日本政府に対して穏便な対応を求めてしまう。ネット界隈で知名度のある木村幹氏も浅羽祐樹氏もその例外ではないようだ。 1. 具体的にどうすべきかは言及されない批評 徴用工問題に関して同様だ。木村幹氏は時事通信のコラムで、「事態の正確な分析を怠ったまま、自らの理解を安易なステレオタイプに押し込んだままで議論を続けている」と批判しているが*1、木村幹氏の言う正確な理解をしたときに日本政府がどう振舞うべきかについては明言しない。木村幹氏が言うように徴用工問題が「「日韓関係を根本的に損なうほどの重要性を持った問題だ」という認識を有するには至っていなかった」のであれば、日韓関係が悪化していること
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の中の「表現の不自由展・その後」の一部の展示物が物議を醸し、開催側の愛知県知事の大村秀章氏と芸術監督の津田大介氏が中止を決定する事態に至った*1。そして一部の展示中止を求めていた河村たかし市長が関係者に謝罪を要求している*2のだが…この芸術祭の運営会議・会長代理は誰であったか忘れてしまったのであろうか。 表現の自由は、政府や地方自治体の予算や催し物で自由に表現できると言う話ではなく、公権力によって自由な表現を阻害されないと言う話なので、地方自治体が主催する美術祭で無難な展示物を選ぶと言うのは理解できる。しかし、今回、物議を醸す作品が入り込むことは、最初から分かったいたはずだ。特別展示の趣旨がそういうシロモノになっている。 主催者ウェブサイトの説明によると、「表現の不自由展・その後」は、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品、公立美
文学者/エッセイストの池内紀氏の『ヒトラーの時代』の記述に多くの誤りがあると歴史研究者から指摘されており*1、特にある章は正誤表での訂正が困難なレベルであるそうだ。歴史を題材にした文学者の随筆だと捉えればよい気もするのだが*2、良質の歴史書が並ぶ中公新書が出してしまったので失望が大きい。中央公論新社が既刊への批判をどう処理するかが注目されるが、もう少し制度的に製作過程を改善すべきかも知れない。 査読システムを入れるべきでは無いであろうか。今回の件は、解釈に飛躍があると言う問題ではなく、固有名詞が一般的な表記とずれている、ドイツ近現代史に詳しい人であればすぐ気づく事実誤認があると言うことで、校閲が頑張れば問題は起きなかったと言う話もあるが、一般的には社会科学や人文科学でも学問的蓄積が進んでおり、出版社の人間がキャッチアップするのは困難になりつつある。また、校閲も何冊も同時に担当しており、十分
哲学者のジョセフ・ヒースが「ワクチン接種は集合行為問題だ」と言い出して、それを真に受けているような人がいたのだが、この議論においてはヒースさんの勘はよく働いていない。実際のワクチン接種の集団免疫効果はそれに依存できるほど高いものではないし、反ワクチン派の振る舞いは集合行為問題からは説明し難いから、安易に合理的な人々によるフリーライダー問題だと結論を出すべきではない。 ワクチンにも色々とあるのだが、現在公的に推奨されているワクチン(e.g. 麻疹, 風疹)のリスク対効果は極めて高い。過去に薬害騒動が無かったわけではないが、製造方法や運用は改善されてリスクはゼロでなくても、極めて低い。感染症の発生率が低下したとしても、何かの拍子で再び流行る事例は多々あるわけで、ワクチン接種の効果がリスクを下回る可能性も実は低い。和歌山市の幼稚園における麻疹の集団発生では、ワクチン未接種者は349名中1名、接種
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