ブックマーク / imperialarmy.blog3.fc2.com (6)

  • 近衛読書中隊 人は石垣

    南方攻略の三軍(25A、14A、16A)を見ていると、人間関係の悪さと戦争犯罪や不祥事は比例関係にあるということが分る。 オランダは今村と岡崎に死刑を求刑したが、結局二人とも無罪となった。第2師団長だった丸山政男も無罪、東海林俊成も死刑を求刑されていたが最後は減刑され、無事復員した。これらはひとえに、大営から何を言われようが「占領地統治要綱の通りにやっている」の一言で撥ね付けた今村と、其の意をよく汲んだ部下の賜物だろう。 第14軍は、バターンのデスマーチで間と野戦輸送司令官の2人が処刑された。これに関しては、マニラかバターンかという戦略的な問題がまずあり、責任の殆どは大営にあるが、そこで独断、バターンへ逃げる米軍を急追できなかった間及びその幕僚の弱さも指摘できる。今村と間は同期の親友で、あまり軍人軍人していないところもよく似ているが、こういう局面での強さに差があるように思う。また

    atoz
    atoz 2008/06/26
    「その後妻の病死という悲報を受けるとすっかり意気消沈し、カイゼル髭を落として念仏ばかり唱えるようになり、そのまま更迭された。戦後はシベリアで病死したという。」
  • 近衛読書中隊 軍部大臣現役武官制の効能

    正確に言えば逆で、軍部大臣現役武官制廃止の効能ですか。 広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活し、その直後に宇垣一成が組閣の大命を拝しながら、陸軍大臣を得ることができずに、泣く泣く大命拝辞するという事件が起こりました。この件については以前 香月清司中将について(1) 林弥三吉中将重大声明 で軽く触れましたが、それではこのとき、軍部大臣現役武官制が復活していなければ、宇垣は無事組閣出来たでしょうか?確かに彼に協力する予備役の大将、中将は数名いましたが、しかし、大臣も出さないというくらい(陸軍に)反感を抱かれている内閣に入閣するぐらいの意気の有る人は、いたかどうか(この話は来、『昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像』を読んだ上でやるべきなのでしょうが、残念ながら私はまだ読めていません)。 宇垣から電話で依頼を受けた小磯国昭は、三長官の推薦が無いなら、仮に自分が受けたとしても、朝

  • 近衛読書中隊 終戦模様三題

    ルーズベルトからの親電握りつぶしに関して、新史料発見と産経が報じている。記事はこちらにある。しかし正直どこら辺が新発見なのは分かりかねる。この話自体は昔から言われてたはずだが。まあこういう記事が出るということは、これを元にしたが出るんだろう。以上は余談。 これらも古まつりの戦利品 『あゝ厚木航空隊』相良俊輔 『夏の空』相良俊輔 いずれも終戦直後の厚木航空隊の叛乱を描いた作品。内容もかぶっている部分が多いが、敢えて言えば前者は司令小園安名大佐の占める割合が大きいが、後者は小園が倒れた後も志を変えずに蹶起したガンルーム士官が占める割合が大きい。 台南空といえば、笹井醇一、坂井三郎、西澤広義、太田敏夫らを擁した日最強部隊であるが、小園はその台南空の副長兼飛行長として大東亜戦争を迎えた。その後台南空が内地に帰還し二五一空となると、小園はその司令に補された。彼は早速愛弟子の遠藤幸男を呼び寄せ、

  • 近衛読書中隊 宇都宮太郎日記1909

    1909(明治四二)年 五月二十二日 土 晴 篠塚中尉来訪。義兄負債の抵当に供せし其家邸の竟に人手に委せざる可からざるの悲報を報ず。 <注釈> 篠塚義男は歩一の将校の中で最も頻繁に宇都宮家を訪れている人物である。かつては自邸の庭に実った柿を持ってきたこともあったが、今度その邸を借金の抵当に取られることとなってしまったらしい。彼は熊幼、中幼、陸士をすべて首席で卒業したホープで、宇都宮も相当な期待を寄せていた。宇都宮は日露戦争当時、駐英武官として明石工作を助けて活躍したが、篠塚も第一次世界大戦に於いて、オーストリア大使館附武官として、情報収集で手腕を発揮した。大山柏は篠塚について、”名諜報で名声を博した”と書いている。四王天延孝も”ウィーンで色々な問題について卓越な意見を聞かされたから、それは書物に書いて広く人に読ませたらどうかと慫慂したら、書物を書きこれを印刷に附することは容易だが、その代わ

  • 近衛読書中隊 2007年05月04日

    小平喜一著 光人社NF文庫 休日出勤のお供にと何気に買った一冊。副題は知られざる日中戦争のインパール戦。支那戦線最大の敗戦である芷江(シコウ)作戦を描いた書。著者は独混第81旅団の下士官だった。 支那における我が軍は連戦連勝であったわけではない。例えば若林東一のデビュー戦となる良口会戦なんかも、負け戦である。しかし芷江ほどはっきりとした大敗は無い。 以下は、専田盛寿81Bs長に関する話。 ”すでに五十の坂を越えた新旅団長は、前任者に輪をかけた、特権意識過剰の我利々々亡者であった。 着任して半月も経たぬうちに、夜伽の女が欲しいと言い出した。 旅団長閣下の欲しいということは即、命令であった。 忠義面した副官は早速、治安維持会に命令して女を準備させた。 人身御供となったのは十六歳にも満たぬ花も蕾の姑娘であった。 そして「おれはサックなんか使うのは嫌いだから病気の有無をよく調べろ」と命じた。” 専

  • 近衛読書中隊 いろいろ気になる

    黒崎貞明という人も多事多端な星の下に生まれた人だ。既に士官候補生のときに革新運動にのめりこみ、そのせいで隊付をするとき、受け入れ側の歩43の中隊長が皆彼を嫌がった。しかし近衛聯隊から転任してきた野田又雄が「俺の中隊で預かろう」と引き受けてくれ、少尉任官の詮衡会議も、聯隊長辻権作の勇断によって何とかこれをパスすることができた(このコンビ安彦良和ファンならニヤリとするところだ)。こうして何とか任官できたが、二・二六事件で、関東軍憲兵司令官であった東條英機に一網打尽にされ、下獄。不起訴となるが、その後もノモンハンにガダルカナル、そして最後は津野田・牛島の東條暗殺計画と、派手といえば派手な軍人生活であった。 野田又雄は、十月事件で検束された人の中で唯一の非幕僚である。鉄血章やらなんやらの問題で、青年将校たちが次々と離反していく中、彼が橋欣五郎の側に残った理由はよく判らない。年齢的に云えば、彼は大

    atoz
    atoz 2007/04/28
    リンク先の辻権作の写真が『虹色のトロツキー』に描かれる正にそのまんまでビビった。
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