【新華社石家荘6月14日】河北省の邯鄲市が管轄する武安市、渉県、磁県などで、明代と清代の地震について記された石碑が多数発見された。先ごろ行われた文化財調査で発見されたもの。石碑の内容は、地震や復興などの状況を記したもので、中国の地震史の研究にとって貴重な手がかりを提供した。邯鄲市文物局が明らかにした。 邯鄲市文物局の王興・局長は次のように述べた。渉県で発見された石碑には、明代嘉靖34年(西暦1555年)12月のある日の真夜中に発生した地震について、千字を使って当時の状況が記されていた。武安市で発見された3カ所の清代道光(西暦1820年から1850年まで在位)年間の石碑には、震災後の廟や村の復興状況が記されていた。武安市磁山鎮の石碑には、道光25年(西暦1845年)4月22日に地震が発生し、村の南にあった井戸が枯渇し、村民が資金を出し合って新しく井戸を掘ったことが記されていた。邯鄲市磁県観台
【新華社北京6月13日】2010年中国考古学10大新発見が9日、北京で発表された。そのうち広東省スワトウで発見された明代の沈船「南澳1号」遺跡が選ばれ、初の水中考古学発掘の選出となった。 他の9件は次の通り。河南新鄭望京楼夏商時代遺跡、山東済南大辛荘商代遺跡、山西翼城大河口西周墓地、江蘇蘇州木涜古城遺跡、陝西西安鳳栖原前漢一族墓地、新疆ピチャン吐峪溝石窟群・仏寺遺跡、陝西藍田北宋呂氏一族墓苑、湖南永順老司城遺跡、江蘇南京大報恩寺遺跡。 国家文物局の童明康副局長は次のように説明した。10大発見に水中考古学から初めて選ばれた広東スワトウ「南澳Ⅰ号」明代沈船遺跡は水中発掘の特徴を真に示しており、船内の品々だけでなく、船体や沈没の過程などが注目されている。考古学研究の手法も国際的に広く行われているやり方と一致している。 今回の10大発見は25件の候補から選ばれた。候補は旧石器時代から明代までのもの
1月 5, 2011 (中国通信=東京)フフホト4日発新華社電によると、中国モンゴル合同考古調査隊は先ごろ、モンゴルの草原地帯で、ガルダンを首領とするモンゴルのジュンガル部と戦った際の清朝康熙帝の駐屯地遺跡を発見した。2010年内蒙古自治区文化財考古成果報告会で明らかにされた。 この遺跡はモンゴルのアルハンガイ県に位置し、アドゲンハリヤル遺跡と名付けられた。この遺跡は東と西の二つの部分からなる。西側の建物は地上に作られ、地表にはや形が異なる47カ所のオンドルが作られており、上級士官の宿舎と軍務を処理する場所だったと考えられている。 遺跡の東側には一列に並んだ住居址が290カ所以上も見つかった。すべて半地下式で、入口は南向きに作られていた。一般兵士の宿舎だったと考えられている。 内蒙古自治区文物考古研究所、モンゴル遊牧文化研究国際学院、モンゴル国立博物館からなる中国モンゴル合同考古調査隊は、
愛知県小牧市教委は8日、織田信長が1563年に築城した同市の小牧山城で、城郭の石に書かれた墨書として日本最古の石材が見つかったと発表した。 本丸北西側の斜面で、堆積岩の一種(縦60センチ、横35センチ、高さ20センチ、重さ93・5キロ)の石材に、縦書きで「佐久間」と書かれていた。城郭の墨書は、信長が1576年に築城を始めた安土城のものが最古とされていた。 市教委によると、「佐久間」は信長が家督を継ぐ以前からの重臣、佐久間信盛(1527〜81年)を指しているとみられる。小牧山城は信長が手掛けた最初の城で、奈良大学の千田嘉博教授(城郭考古学)は、「最も目立つ工区に重臣の佐久間信盛を割り当てて仕事をさせた。信長の巧みな人心掌握術をうかがわせ、興味深い」と話す。10〜22日、小牧市歴史館(0568・72・0712)で公開される。
『史記』列伝の冒頭を飾り、「周の粟を食らわず」の故事で知られる伯夷・叔斉兄弟の故国「孤竹国」。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A4%E7%AB%B9%E5%9B%BD 河北省盧龍県の蔡家墳遺跡がその孤竹国の都ではないかという話が出ている。その根拠は近辺で出土した殷代の青銅器には「孤竹」銘文が鋳られたものがあること。 http://www.chinanews.com/cul/2011/03-23/2923741.shtml 1973年に遼寧省喀左県北洞村で出土した渦紋銅罍には「父丁孤竹亜微」の銘文がある。 http://www.cnki.com.cn/Article/CJFDTOTAL-SHZX198302048.htm 孤竹国の君主は子姓の墨胎氏(墨台氏)で、殷の同姓諸侯とされている。墨子(墨翟)はその子孫という説もあるらしい。 http://ba
http://sichuan.scol.com.cn/cddt/content/2010-11/19/content_1594520.htm http://sichuan.scol.com.cn/cddt/content/2010-11/20/content_1598889.htm http://sichuan.scol.com.cn/cddt/content/2010-12/27/content_1740527.htm 四川省成都市の天府広場の西側から2基の後漢碑が出たようです。「大碑」・「小碑」と呼ばれていますが、ふたつ合わせて10トンという巨大な石碑です。大碑には表裏両面で1400字あまり、小碑には表裏両面で800字あまりが刻まれているそうです。とにかく大きいということが分かります。 大碑のほうは「元嘉有二仲」とあって、これは元嘉二年で西暦152年のことです。小碑の両面にはふたつの年
【北京=佐伯聡士】北京のオフィスビル建設現場で、夜陰に乗じて懸命に働く人々がいる。 といっても建設工事に携わる民工(農村からの出稼ぎ労働者)ではない。明や清時代の磁器のかけらを命がけで掘り出し、収集家に高値で売りさばく仕事師たちだ。その数1000人ともいわれる。危険と隣り合わせの商売だが、ゴミが宝に変わる瞬間が彼らをとりこにしてやまないようだ。 北京市中心部にある報国寺。週末ともなれば、磁器のかけらが所狭しと並んだ露店は、大勢の人でにぎわう。「清、明、元のモノ、いろいろあるよ。明のこれなら一つ300元(約3800円)でどうだい」。40歳代の男性が約15センチ大のかけらを手にふっかけてくる。 本当の価値は素人にはわからないが、収集家には大変な人気だそうだ。欠けた磁器を集める人もいれば、かけらを装飾品に使う人もいる。中国紙「新京報」によると、今年上半期、北京で開かれたオークションでは、158件
よく分からないながら、李学勤「清華簡九篇総述」を斜め読み。 http://ishare.iask.sina.com.cn/f/9064807.html 清華簡は、2008年7月に海外から清華大学に持ち込まれた戦国竹簡です。 以前うちでも記事書きました。 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20090427/p1 さて、李学勤氏は何を言っているのでしょうか。清華簡63篇のうち9篇は、『尹至』・『尹誥』・『程寤』・『保訓』・『耆夜』・『金縢』・『皇門』・『祭公』・『楚居』という仮題がついているそうです。 『尹至』は、殷の伊尹が成湯にまみえたときの対話らしい。冒頭に「惟尹自夏徂亳」。 『尹誥』も、伊尹の話。「惟尹躬及湯咸有壹徳」。 『程寤』は、『逸周書』程寤解にあたるらしい。 『保訓』は、周の文王の遺言らしい。 『耆夜』は、このへん http://d.hatena.ne
清華大研究チーム、寄贈品から2千年ぶりに「尚書」を発見!―中国(レコードチャイナ) 2009年4月25日、清華大学が入手した戦国時代中期〜後期のものとみられる2300枚余りの竹簡(ちくかん)の中から、2000年以上所在不明だった「尚書」のほか、「編年体史書」などが発見されたことが明らかになった。北京晩報が伝えた。 竹簡(「清華簡」)は同大の卒業生が海外で購入し、昨年7月に寄贈した。戦国時代中期〜後期(紀元前305〜同250年ごろ)のものと鑑定されている。25日、同大は数か月に及ぶ整理作業を終えて、計2388枚(破損しているものを含む)の鑑定結果を報告した。 同大の李学勤(リー・シュエチン)教授によれば、清華簡の大半が歴史をひも解く貴重な文化財であり、その中には2000年以上所在不明だった「尚書」が含まれる。秦代の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の際、「尚書」の多くが散逸したと伝えられている。ま
その四のつづきです。 今回は討論会の質疑のメモからまとめに入ります。ICレコーダーでもあれば、もう少ししっかりと内容を起こせるのかも知れませんが、会場で聞いたときのメモ書きを清書しただけなので、断片的でよく分からないと思います。そのへんご容赦を。 潘偉斌:最初盗掘坑から曹操の墓に入ったとき、中には3mほど土がたまっていた。 規格性の高い墓だというのはすぐ分かった。 洛陽の後漢墓との比較で時代が分かる。 古い盗掘坑は西晋時代のものか。 新しい盗掘坑は2006年。 石牌に副葬品の名がすべて残る。 夏侯惇墓があれだけの規模ということはありえない。 石圭の大きさは最大のもの。 郝本性:人骨が後室にあったのは、後室が生活の場、前室が宮殿に見立てられるから。 磚室墓には水が侵入しやすく、人骨が散乱しやすい。 しかし曹操墓のものは揃っていないので、盗掘者の侵入によって動かされた可能性が高い。 西高穴村1
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く