「どう見ても変な人」 自分でドアを開けたことがない 平山郁夫に衝撃、日本に留学 ラストエンペラーとして知られる愛新覚羅・溥儀(プーイー)。王昭(ワン・ジョオ)さんは、溥儀のおいで、画家として日本に暮らしています。1950年に生まれ、文化大革命も経験した王昭さん。「ドアを自分で開けたことがない」「宮廷料理よりジャージャー麺が好物」というラストエンペラーの素顔。画家としての半生を聞きました。
清朝時代の新年を祝う行事を再現した北京・地壇公園でのイベント(18年2月16日) Thomas Peter-REUTERS <最後の中華帝国・清の位置付けをめぐり、共産党は外国人歴史家への攻撃を強めている> 政治、文化、道徳、経済、外交......。中国の習近平(シー・チンピン)国家主席は、実にさまざまな分野でイデオロギー戦争を指揮している。 なかでも最大の火種は歴史、特に最後の中華帝国・清(1636~1912年)の歴史だ。習のイデオロギーに合わせて過去を書き換えようとする動きに抵抗する歴史家は、繰り返しプロパガンダ機関による攻撃の標的にされてきた。 習には強力な武器がある。03年に共産党が立ち上げた清代の歴史編纂プロジェクト(清史工程)だ。この野心的な国家事業には、3つの使命が与えられた。 第1に、伝統の継承。中国の歴代王朝は、前王朝の「正史」を完成させることで政権の正統性を誇示してきた
清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の実弟、溥傑の毛筆が今春にも、書体デザイン(フォント)「相依為命体(そうい・いめいたい)」としてよみがえる。溥傑は流れるような書体が特徴の書家として知られ、文字の独特の美しさに惚れ込んだ大阪市のシステム会社などが書家、香蘭さんと共同開発した。CD-ROMなどを購入してパソコンにインストールすると、溥傑の毛筆で手紙などを書くことができる。数奇な運命をたどったラストエンペラーの弟の筆跡の復活も、ドラマチックな偶然の出会いがきっかけだった。(中山玲子) 「この美しい字をずっとフォントにしたいと思っていた。実現できるのは本当にうれしい」 大阪市東淀川区のシステム会社スキルインフォメーションズのコンテンツ事業部の片岡正部長は、感慨深げだ。 片岡部長が初めて溥傑の書を目にしたのは約10年前だ。その流転の人生をドキュメントタッチで描いたテレビ番組を偶然見たのがきっかけだった。
光緒三十一年(1905),由於大清國勢衰弱,清廷為平息政局紛擾,決心進行政治改革,建立君主立憲政體。遂以立憲為名,派遣載澤、戴鴻慈、徐世昌、端方和紹英等五大臣分赴東西洋考察各國憲政。革命黨人吳樾得知此事後,因擔心立憲成功,使民主共和無望,故決心阻止,在北京正陽門東車站以炸彈襲擊出洋五大臣,吳樾壯烈成仁。 院藏〈大清國致大英國國書〉和〈大清國致大法國國書〉係本次出使準備呈遞受訪國之外交文書,因吳樾的阻撓而留存清宮,輾轉來臺,是見證清末「立憲運動消亡,民主政治初昇」的重要歷史文物。 大清國遣使出洋考察致英國國書〈大清國致大英國國書〉 國書 縱:34.5公分 橫:269公分 函套 縱:34.5公分 橫:23公分 高:2.5公分 故閣000059 國立故宮博物院藏
愛新覚羅顕●(●は王へんに奇)さん(あいしんかくら・けんき=中国清朝の粛親王善耆の末子)が26日、北京市内の病院で死去、95歳。「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子の妹。 1918年、清朝の王族、粛親王善耆の末の王女として生まれ、日中戦争のさなかに日本留学。戦後は北京で翻訳者として働いた。50年代、海外帰国者や資産家らが標的とされた「反右派闘争」で逮捕され、15年の服役と5年以上にわたる強制労働を経験。文化大革命後に釈放された後、北京の史料館で働きながら日本語学校を設立するなど、日本語人材の育成にも尽力した。 86年、日本語で「清朝の王女に生れて」を出版。日本人の養女となり、清朝再興を目指して日本軍の情報活動に関わったとされる姉、川島芳子との思い出や、日中の激動の時代を生きた半生をつづった。(北京=林望)
宣統帝独逸留学 「東京朝日新聞」1914/01/08 宣統帝(十一歳)と喀喇沁王女(十二歳)との間に婚約成立の噂あるが、喀喇沁王は皇帝十五歳に及ばば、独逸に留学を希望し、独逸宮廷は喜んで其教育を引受くべく、既に内相談を定めたりと。 【メモ】 愛新覚羅溥儀のドイツ留学計画に関する記事。 実現されていたらと思わないでもない。 寒気凛烈 「東京朝日新聞」1914/01/08 六日来、寒気激烈にして同夜風雪あり。七日朝の気温、零度以下十五度に下れり。 遼河結氷 「東京朝日新聞」1914/01/08 遼河結氷す。 【メモ】 満州の天候に関する記事、二題。 同地の寒気の厳しさが窺える。 是非クリックお願いします 表示中の記事 百年新報 (1914.01.08) (01/08) Amazonリンク カテゴリ お知らせ (9) 百年新報 (704) 鉄人の軌跡 (12) 続・江戸の話 (125) どしけん
張勲叛せん 「東京朝日新聞」1912/05/24 宿遷より至れる支那人側の報道に曰く、張勲は宗社党に合し、山東省滕県及嶧県於て軍兵二十営を集め、泰安に於て兵を挙ぐる準備中なり。 【メモ】 袁世凱の腹心である張勲が宣統帝復位を目指す宗社党と共に反旗を翻すという報道。 恐らくは事実誤認であろうが、この数年後の所謂「張勲復辟」を考えると興味深い。 幼帝と陳宝琛 北京 蒼鷹公 「東京朝日新聞」1912/05/24 でんでん太鼓に笙の笛、自動汽車よ、電車よと、手遊玩具に余念なかるべき、宝齢僅か七歳と云ふに、晨(あした)には九時より南書房に出臨して、午後四時に至る迄、読書習字に精励せらるる、宣統幼帝の可憐さは、さらでも涙脆き隆裕皇太后の涙の種なりとか。幼帝の師傅と頼まるる福建の名士、侍読学士陳宝琛にして、歯耳順を逾(こ)ゆること七歳、曽(かつ)ては十七歳にして進士に及第し、三百同庚最少年(陳氏印中の語
今まで何となく買いそびれていた、内田道夫 編『北京風俗図譜』東洋文庫 を購入したので、パラパラ捲ってフムフム言ってます。オンデマンド版だと図版が大きくて些かお得気分です。なんか東洋文庫のサイズだと図版ちっこそうで躊躇していた部分はあるんですよねぇ…。で、寡聞にして知らなかったんですが、これ絵画部分は青木正兒センセが留学してた時に現地の絵師雇って書いて貰ったモノの様ですね。もっともこの本の肝は各画の解説部分にあるので、注釈を付けた内田道夫センセの本だと言うコトは間違いないんですけど。 で、パラパラ捲っているとこんな記事に遭遇。 神仏をまつる寺廟にも、それぞれはやりすたりはあるが、北京城内のそれは、いずれも整頓されたものが多かった。前門の関帝廟は『三国志』で有名な関羽の霊をまつるもので、鼓楼の関帝廟とともに人を集め、つつましやかな男女の神前にぬかずく姿が見られた。明の成祖永楽帝が蒙古王ベンヤシ
清末モノのドラマなどで西洋人に辮髪をPigtailと称されて、開明的な知識人が異国で憤慨する…っていうのはお約束の一つになっているかと思います。なるほど、英語では辮髪のことをPigtailって言うワケね~豚のしっぽだなんて侮蔑的~等と言う文脈で語られることも多いと思います。でも本当にそうなんでしょうか? 英単語でPigtailって普通に三つ編みお下げ髪のことを指したりするわけですよ。ポニーテールと同じ感覚です。となると… 1:辮髪のことをPigtailと称したので、辮髪に似ている三つ編みお下げ髪のことまでもPigtailと称するようになった→辮髪起源説 2:元から英語圏では三つ編みお下げ髪のことをPigtailと称していて、たまたまダイチン・グルンに到達した際に、見慣れた三つ編みお下げ髪に似ている!辮髪=辮子を指してPigtailと称した。→三つ編み起源説 …と、二通りの起源が考えられます
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