ヒトラーは政権を握った際、自らに独裁権を与えることを主張していた。1932年7月の選挙で国民社会主義ドイツ労働者党(通称:ナチ党)は第一党となり、国防相であったクルト・フォン・シュライヒャーがパーペン内閣への協力を要求した。この時、ヒトラーは自らの首相就任と全権委任法の成立を要求している。しかしこの時は妥協が成立しなかった。 1933年1月30日に成立したヒトラー内閣最初の閣議でも、一定の授権法制定が議題となった[9]。その後ヒトラーはまもなく国会を解散し、4年間の政権委任を訴える選挙キャンペーンを行った。この選挙中の2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーは大統領に要請し、「共産主義暴動の発生に対応するため」として、「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(de:Verordnung des Reichspräsid