本書のタイトルから、生政治という言葉でよく語られる「監視社会」批判の類を想像する読者も多いだろうが、フーコーはこうした問題にはまったく触れていない。彼が主題とするのは、生政治のもっとも洗練された形態としての経済的自由主義であり、その代表はハイエクである。生政治と自由主義というのは、常識的には対極にあるように思われるが、フーコーが晩年の『知への意志』でも警告しているように、自由を抑圧からの解放と考えることは、ナイーブな左翼的錯覚である。逆に、自由主義はきわめて高度な統治技術を必要とするのだ。大いなる規律の技術、すなわち個々人の行動様式をその最も細かい細部に至るまで毎日規則正しく引き受けるものとしの規律の技術が発達し、急成長し、社会を貫いて拡散するのは、自由主義の時代と正確に同時代のことでした。[・・・]ここにおいて管理はもはやパノプティズムの場合とは異なり、ただ単に自由に対して必要な歯止めで