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ブックマーク / xuetui.wordpress.com (13)

  • 拙著『目録学の誕生』が刊行されます

    久しぶりに単著を出せる運びとなりました。『目録学の誕生』というタイトルで、勤務先の名を冠した「京大人文研東方学叢書」というシリーズが臨川書店から刊行されていますが、その第6冊です。 コラムなどは楽しんで書きました(以前このブログに書いたことをまとめ直したものも少しだけあります)。広くお読みいただきたいと願っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。 刊行は、年3月上旬の予定です。以下のリンクから予約いただければ幸いです。 https://amzn.to/2I9xsDz 『目録学の誕生−劉向が生んだ書物文化』 京大人文研東方学叢書 6 古勝隆一著 臨川書店、2019年3月 四六判・上製・紙カバー装・帯付 総268頁 体3,000円+税 ISBN978-4-653-04376-8 人にとって書物とは何か。なぜ、書物は必要なのか 書物をぬきにして中国文化を語ることはできない。その書物は

    拙著『目録学の誕生』が刊行されます
  • 文政から天保へ | 学退筆談

    文政十三年、年も押し迫った十二月十六日に改元があり、天保元年となりました。西暦で言うと、1831年1月29日のことです。 文政十三年には天災が多く発生しました。いわゆる文政京都地震も、この年の七月(旧暦)に起こり、それを受けての改元のようです。 さて、松崎慊堂(まつざき・こうどう、1771-1844)『慊堂日暦』を読んでいたところ、同年十二月六日の記事に、こうありました。 京師の地震は、俗間に伝えて改元の事となす。過月七日、京師はまた大いに震い、相伝えて天保、或いは正文と改元すと云う。(『慊堂日暦』3、平凡社、東洋文庫、p.118) なんと、改元が公表される前に、新元号のことをあらかじめ知っていたというのですから、驚きます。十六日の記事には次のようにあります。 林公〔林述斎〕は有司をして歳儀を賜わしめ、長公〔林檉宇〕は別に博多煉酒及び醢を饋り、且つ今日天保と改元せることを報ず。果たして六日

    文政から天保へ | 学退筆談
  • 『正史宋元版之研究』

    尾崎康先生の『正史宋元版の研究』(汲古書院、1989年)が、中国の正史について最も確かな版学的研究であることは、いまさら言うまでもありませんが、この大業績が中国語に訳出されました。 正史宋元版之研究 (日) 尾崎康著 ; 喬秀岩, 王鏗編譯 中華書局 2018年 この中国語版、単なる日語版の翻訳ではありません。書を読むと分かる通り、尾崎先生は日語版をお出しになった後も精力的に調査を続けられており、北京の国家図書館、北京大学図書館、上海図書館、復旦大学図書館などの蔵書をお調べになって、それぞれ成果をまとめていらっしゃいます。このたびの中国語版には、それらの成果が全面的に盛り込まれており、さらに充実した増訂版となっています。 書は、橋秀美氏のご尽力によって成ったものとの由、同氏「漢訳増訂版編後記」に記されております。この編輯自体も、それ自体たいへんなお仕事です。 汲古書院版をすでに

    『正史宋元版之研究』
    consigliere
    consigliere 2018/08/21
    「さらに充実した増訂版となっています」
  • みすず版『漢文研究法』刊誤

    最近、このブログの記事「平凡社東洋文庫版『漢文研究法』」の中で、「みすず版の瑕疵を数十箇所ほど訂正することができたのは、小さな喜びでした」と書いたところ、それを見て「どこをどう変更したのか」と声をかけてくれた友人がありました。 一冊買ってくれればすむものを、とも思いましたが、みすず版に訂正を加えて長く愛用したいということかも知れません。そういう需要もわずかながらあるのでしょう。以下、メモしておきます。左がみすず版、右が東洋文庫版で、問題のある字に色をつけてあります。 ・p. 9「Qu‘ sais-je?」→p. 19「Que sais-je?」 ・p. 19「『千頃堂書目』百三十二卷」→p. 30 「『千頃堂書目』三十二巻」 ・p. 29「清邵懿振撰」→p. 41 「清邵懿辰撰」 ・p. 38「T‘oung P‘ao」→p. 51「T’oung Pao」 ・p. 45「祖孝徴名(斑)」→p

    みすず版『漢文研究法』刊誤
  • 留、劉と通ず

    狩野直喜「経史子概要」(『漢文研究法』、みすず書房、1979年、所収)は、経書の簡潔な解説ですが、『詩経』の解釈における、毛伝と朱子集伝との違いを述べています。その例として、王風の「丘中有麻」の詩を挙げているので、ここに引用します(p.112)。 王風「丘中有麻」に、 「丘中有麻、彼留子嗟、彼留子嗟、將其來施施」云々 朱傳に、 「婦人望其所與私者而不來、故疑丘中有麻之處復有與之私而留之者」云々 と解せり。古義によれば、 「丘中有麻、思賢也、莊王不明、賢人放逐、國人思之而作是詩也」云々 曹劉と通ず。漢書地理志、水經注などにあり。 問題は末尾の「曹劉と通ず」であり、校訂者は「原稿にかく見えるが、文意は通じない」と注記しています(同書、p.113)。 確かにこれでは意味が通じません。著者の意図は「留、劉と通ず」であったと、わたくしは推測します。「曹」は「留」の誤りでしょう。 「彼留子嗟」という詩

    留、劉と通ず
  • 『孝経』を買う人

    阿部隆一・大沼晴暉「江戸時代刊行成立孝経類簡明目録」(『斯道文庫論集』14、1977年)は、江戸時代に多数出版された『孝経』の目録として今なお有用なものですが、その緒言に面白いことが書かれています。 『孝経』はたいへんに広く蔵されていて、図書を蔵する機関のみならず、「個人の蔵書家の中にも孝経の蒐集家はかなり見うけられる」として、次のように言います。 その蒐集の動機は必ずしも孝経研究を目的として発しているとは限らない。書物好きは古屋を廻ってはの山をいじり、店の主人と話し込む、さて引き上げる段になって何も買うものがないと気がひけるので、少し前までは店にごろごろして値の安かった孝経を御愛想に買って帰る。それが幾部かたまると一体孝経にはどの位の版があるかと蒐集慾が刺戟されて積極的に集め出すわけである。 これはなかなか穿った見方ではないかと思いました。江戸時代から明治時代にかけて、各種各様の『

    『孝経』を買う人
  • 一画の差

    名高い泰山の北に済南という町がありますが、後漢から隋にかけての時代、このあたりは山茌県という地名だったそうです。『後漢書』郡国志に「山茌,侯國」(『後漢書』郡國志三、兗州、泰山郡)と見えるのがその早い例。 ところで、さまざまな書物やそのさまざまな伝において、この「山茌」を「山荏」と誤るものが相当数あり、たとえばちかごろたまたま眼にした『続高僧伝』読誦篇の一文もそうでした。 高麗再雕『続高僧伝』より 釋志湛,齊州山荏人,是朗公曾孫之弟子也。(『續高僧傳』卷二十八、讀誦篇、魏泰岳人頭山銜草寺釋志湛傳。T50-686a) 『大正新修大蔵経』では、この部分に校勘記がありませんが、しかし「山荏」が「山茌」の誤りであることは確かです。たとえば、CBETA、SAT、KANRIPOといったデータベースで、「山荏」と検索してみてください。他にも例を見いだせます。 近年、『続高僧伝』の点校が出ました(郭

    一画の差
    consigliere
    consigliere 2016/04/24
    そういえば点校本の続高僧伝買っていなかった・・・よさそうなので手に入れておくか
  • 権威ある注釈

    今春から担当しているある授業のために、中国古典に対して作られた権威ある注釈のうち、唐以前に著されたものを列挙してみました。現存している注釈のみ挙げてあります。配列はおおむね『四庫提要』の分類順に従いました。 常識的な内容であり、またあくまでも便宜的なものですが、資料等にご活用いただければ幸いです。漢学専攻の学生諸君には、一通り覚えておいてもらいたい事項です。ご要望があれば、代表的な版を書き加えるかも知れません。 經部 《周易》(魏)王弼注/(唐)孔穎達正義 《尚書》(傳前漢)孔安國傳/(唐)孔穎達正義 《詩》(前漢)毛亨傳/(後漢)鄭玄箋/(唐)孔穎達正義 《周禮》(後漢)鄭玄注/(唐)賈公彦疏 《儀禮》(後漢)鄭玄注/(唐)賈公彦疏 《禮記》(後漢)鄭玄注/(唐)孔穎達正義 《大戴禮》(北周)盧辯注〔闕〕 《春秋左傳》(西晉)杜預注/(唐)孔穎達正義 《春秋公羊傳》(後漢)何休注/(北

    権威ある注釈
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    consigliere 2014/04/24
    『論語義疏』等々挙げられていないものは、古典ではない、もしくは権威ある注釈ではない、という御判断かしら
  • 『中国仏教史籍概論』日本語版

    最近、陳垣(1880-1971)の名著、『中国仏教史籍概論』(中華書局、1962年。初版の序文は1955年10月)の日語版が出版されました。 西脇常記・村田みお訳『中国仏教史籍概論』、知泉書館、2014年1月 中国仏教史籍概論 陳垣の書物を日語に訳したものとして、かつて野口善敬氏による訳註、『訳註清初僧諍記―中国仏教の苦悩と士大夫たち』(中国書店、1989年)が刊行されました。 それに続き、書、『中国仏教史籍概論』が日語に訳されたわけです。陳垣の学問を敬愛する者として、陳氏の業績が日の読者にとって身近なものとなったことを嬉しく思います。 書は、中国仏教史にも造詣の深い陳氏が、史書としての内容を備える仏教関連書籍を解説したものです。それらの書物により史実を考証することに主眼が置かれているため、中国仏教の概説というわけではありません。 あわせて六巻、目録書や僧侶の伝記など、三十五部

    『中国仏教史籍概論』日本語版
  • 『仏典はどう漢訳されたのか』

    出版されたばかりの、船山徹『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(岩波書店、2013年12月)を読みました。 仏教が中国にはじめて伝えられたのは、前漢時代のことであったようですが、後漢時代、二世紀ごろにもなると、いくつもの仏教経典が漢語に翻訳されるようになります。「漢訳仏典」と呼ばれるものです。書は、翻訳文献としての漢訳仏典に焦点を合わせた、はじめての格的な概説書です。 長い歴史を持ち、現代にも生きている漢訳仏典。葬儀や法事で僧侶があげるお経や、『般若心経』の写経などを通じ、日人にとっても馴染み深いものです。また「縁起」「輪廻」「世界」などのことばも、すべて漢訳仏典に由来します。 そんな親しみのあるものについて、総括的な概説書がこれまでなかったことは、奇異にすら感じられるかもしれません。しかし、漢訳仏典の概説を書くためには、並外れた力量が必要で、インド・中国のみならず

    『仏典はどう漢訳されたのか』
  • 『説文解字注』影印本、謎の改悪

    早稲田大学蔵、段注経均楼 段玉裁(1735-1815)の『説文解字注』、嘉慶二十年(1815)の原刻を手元に置くわけにもゆきませんので、皆さん、普段は影印をお使いのことと思います。私も台湾芸文印書館版・上海古籍出版社版など、いくつかの影印を愛用しています。 ここに困ったことがあります。影印ごとに、内容が違う場合があるのです。影印は、底の写真によっているので、原則的に内容は違わないはずですが、修正を加えられた時にはそのかぎりではありません。 今日、仲間と段注の読書会をしたところ、第三篇下「殺」字(その第四の「古文」)の段注の内容に問題があることに気がつきました。ここに写真をお示ししたのは、早稲田大学が公開している原刻の写真ですが、その第三篇下、二十八葉表の第八行目に「當云從殳從杀」とあります。ところが、影印によっては、なぜかこの「云」が「去」になっているものがあるのです。

    『説文解字注』影印本、謎の改悪
    consigliere
    consigliere 2013/06/09
    たしかに架蔵本(上海古籍出版社)では「去」になっている・・・(『詁林』の切り貼りは「云」)
  • 校勘の難しさ

    昨日、皇侃が「棖」を「ぶつける・ぶつかる」意と考えた、と書きました。該当の文につき、もう少し詳しく見ておきたいと思います。まず武内義雄博士が大正時代に校刊されたによって〔甲〕としてお示し、次にその底である龍谷大学蔵、文明年間写を〔乙〕としてお示しします。さらに、武内氏の校勘記も併記しておきます。 〔甲〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以禦車過,恐觸門也。 〔乙〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以御車過,恐棖觸門也。 〔校勘記〕文明「觸」上有「棖」字,恐衍。今依他削正。 「校勘記」が指摘するとおり、龍谷は「恐棖觸門也」と作っているのですが、武内氏はこの「棖」を衍字と見なし削除しています。 この「恐棖觸門也」の部分、龍谷では「棖」の右傍に「亻无」と注記を付けています。「亻」は「他」の略記、龍谷が参照したもう一つの写には存在しなかった、ということで、武内氏はこの「他

    校勘の難しさ
  • 『七略別録佚文』の出版年

    姚振宗(1842-1906)がまとめた『七略別録佚文』『七略佚文』の二書は、目録学上、実に重要な著作です。しかし、それらは姚氏の生前に出版されることはありませんでした。以前、開明書店版の『師石山房叢書』(1936年)に付けられた年譜をてがかりに、このブログに姚氏の著作の出版経緯をまとめました。 民国6年(1917)、張鈞が「適園叢書」に『後漢藝文志』『三國藝文志』を収録。 その後、数年して楊立誠が「文瀾閣珍叢刊」に『七略別録佚文』『七略佚文』『漢書藝文志條理』『漢書藝文志拾補』を収録。 民国21年(1932)、陳訓慈が浙江図書館より、「文瀾閣珍叢刊」から『七略別録佚文』『七略佚文』『漢書藝文志條理』『漢書藝文志拾補』を取り、さらに『隋書經籍志考證』を印行し、『快閣師石山房叢書』として出版。 さらに次のように書きました。 上記のうち、楊立誠の「文瀾閣珍叢刊」というものがどうしても確認で

    『七略別録佚文』の出版年
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