9世紀前半の山寺(山岳寺院)跡とみられる遺構が昨年確認された会津坂下町の高寺山(たかでらやま)遺跡で、古密教の祈祷(きとう)で利用する「修法壇(しゅほうだん)」や、湧き水をためる堰(せき)とみられる遺構が新たに見つかったことが25日、町教委への取材で分かった。宗教考古学専門の時枝務立正大教授(61)は、いずれも国内で数例しかない貴重な遺構と評価し「(会津に仏教文化を興隆させた)徳一(とくいつ)とも深く関わりがあると考えられる」としている。 町教委などによると、遺跡南東の高台で土を削り取った跡や石組み、物を燃やしたとみられる炭などが出土。高台北側では谷に沿って河原石が敷き詰められていた。出土品や遺構の状況から、修法壇と堰の跡とみられ、堰でためた水は、古密教の祭礼で利用された可能性があるという。 遺構は、出土した土器などの炭素の年代測定からいずれも9世紀ごろのものとみられる。同遺跡ではほかにも
墓室の中央にあるレンガ造りの供物台。出土の時、供物台の上には墓誌が置かれていた。墓室の北西、南西、北東、東南の壁には彩色画が描かれている(安陽市文物考古研究所孔德銘所長提供)。(c)Xinhua News 【3月16日 Xinhua News】中国河南省安陽市で、レンガ彫刻が施された金王朝時代(1115~1234年)の壁画墓が発見された。このほど発表された発掘調査報告によると、墓は独特な設計が施された高僧の墓で、4人が埋葬されており、壁画の内容にはこれまで見られなかった題材が含まれている。河南省の黄河以北で金代高僧の墓が見つかったのは今回が初めてであり、考古学的に重要な価値を持つ。 墓は市内の文峰大道と太行路の交差点の東南角に位置する複合施設、大華時代広場で13号棟の基礎溝工事を行った際に見つかった。墓の発見後、同市文物考古研究所は国家文物局の許可を得て、北京大学考古文博学院と共同で発掘調
亀岡市●田野(ひえだの)町の佐伯遺跡から、古代寺院の存在を想起させる仏塔を模した土製品「瓦塔(がとう)」や大量の瓦片などが出土し、府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。丹波地域の仏教の広がりを考えるうえで、重要な手がかりになるという。 国営農地再編整備に伴い8カ所で計約7300平方メートルを調査。東端の2カ所から信仰の対象とされていた瓦塔の破片のほか、瓦ぶきの建物の存在を示す瓦片が大量に出土した。 瓦塔や瓦の形式などから8世紀の奈良時代から9世紀の平安時代前期にかけ、これまで想定していなかった寺院が建てられていたと考えられるという。 また、瓦ぶき建物を区画する塀の柱穴跡が南北24メートルにわたり連なって出土したほか、農業関係の役所跡などで出る「田屋」と墨書された土器もみられた。 同市内ではこれまで、丹波国分寺・国分尼寺を中心に4カ所で古代寺院跡が出土しており、センターは「●田野地域では役
島根県出雲市の高野寺が所蔵する木彫仏像「聖観音(しょうかんのん)菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)」が平安時代初期の制作と分かり、県立古代出雲歴史博物館で初めて一般公開されている。同館は「出雲地方で現存する最も古い木彫仏像の可能性が高い」と評価している。 同館が、特別展「島根の仏像-平安時代のほとけ・人・祈り-」の開催に先立ち、県東部の寺院にある仏像を調査していた際、存在を確認。小さな顔立ちや厳しい表情、伸びやかにS字を描いた体部など、8世紀後半から9世紀初め頃の木彫仏像の特徴が見られるという。カヤ材の一木造で、像高は1・2メートル。 また、寺伝によると高野寺は天長年間(824〜834年)の創建とされ、同館は「寺院の開創時期と仏像の制作年代が一致する」とみている。 同寺院は、江戸時代後期の弘化5(1848)年、火災で本堂などを焼失した際、庫裏に安置されていたこの像を本尊とした。近年まで、寺院関係
金西寺に伝わる「当寺御開山御真筆」を手にする高崎俊幸住職(左)と調査した島田大助・豊橋創造大教授=愛知県豊橋市役所で、石塚誠撮影 愛知・豊橋の寺で発見 悪感情読み取れる 愛知県豊橋市の金西寺(曹洞宗)に伝わる古文書に、織田信長を批判的に評した詩文が引用されていたと島田大助・豊橋創造大教授(日本近世文学)や高崎俊幸住職が発表した。島田教授は、仏教界の信長に対する悪感情が読み取れるとしている。 文書は、寺を開いた月岑牛雪大和尚が江戸時代初期の1619年以降に書いたとされる開山記「当寺御開山御真筆」。 その冒頭に、近江国(現在の滋賀県)出身で京都・東福寺の住持を務めた集雲守藤の別号とされる江湖散人の詩文が引用されていた。詩文は、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の翌月の1582年7月に作られたとみられる。
京都市の小さな寺にある、江戸時代のものと思われていた仏像が、実は、仏教が日本に伝来して間もない頃に朝鮮半島で作られた極めて貴重な仏像の可能性が高いことが、大阪大学などによる最新の調査でわかりました。専門家は「こうした貴重な文化財は、ほかにも埋もれている可能性がある」と指摘しています。 この仏像について、大阪大学や東京国立博物館の研究者が改めて鑑定したところ、額に刻まれた模様や装飾品の龍のデザインなどが6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致していました。さらに、仏像にX線を当てて金属の成分を詳しく調べた結果、銅がおよそ90%、スズがおよそ10%で鉛はほとんど含まれていませんでした。こうした割合は日本や中国の仏像にはなく、7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像である可能性が極めて高いことがわかったということです。 この時代は、日本に仏教が伝わってまもない時期に当たりますが
記事一覧 平安期・平泉寺の落慶法要文献発見 延暦寺支援、泰澄大師の名、旧跡も (2017年1月3日午前7時10分) 国宝称名寺聖教のうち「上素帖」。傍線部に「大(泰)澄大師」と書かれている(称名寺所蔵・神奈川県立金沢文庫管理) 平安時代後期に、平泉寺(福井県勝山市の現平泉寺白山神社)で行われた大講堂の落慶法要について記した文献が見つかった。比叡山延暦寺から導師を招いていたことや、6体の仏像を安置した大講堂の内部空間が判明。白山を開いたとされる「泰澄大師」の名や旧跡も記され、この時期に泰澄伝承が広まっていたことも分かった。専門家は、平泉寺の歴史や泰澄研究の重要な史料とみている。 文献は、国宝称名寺聖教(しょうぎょう)「上素帖(じょうそじょう)」。この中から、東大史料編纂所特任研究員の阿部美香さんが平泉寺の「堂供養」に関する2点の史料を発見し、このほど福井市で開かれた学術団体「藝林会」の研究
顔の正面の大部分や右手が鋳造当時のものだという研究結果が出た飛鳥大仏(奈良県明日香村の飛鳥寺で。藤岡教授提供) 文献上、日本で鋳造された最初の仏像だが鎌倉時代に火災に遭った記録がある奈良県明日香村、飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏について、藤岡 穣 ( ゆたか ) ・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが調査し、「顔部分のほとんどは7世紀の造立当初のものとみられる」と判断した。 像の大部分が後世の補作だとするなど諸説あったが、重要な部分が古代の姿のままだったことになる。 調査は今年6月、大阪大や東京文化財研究所、韓国国立中央博物館などの研究者約30人により行われた。 研究グループは、顔と胴体の制作時期の前後関係を検討。顔の正面は、目や顎、額などに継ぎ目がなく、一体で造られた状態で残っており、ほとんどが当初のままと判断した。様式も奈良県内などに残る飛鳥仏と似ているという。顔に小さな銅板を留めてある
基壇 古代では最大級 奈文研では、2015年に、東大寺・奈良県立橿原考古学研究所とともに発掘調査団を組織して、東大寺の東塔跡の発掘調査をおこないました。 奈良時代の東大寺には、東塔と西塔という二つの巨大な七重塔が建っていました。1180年の平重衡の焼き討ちによって、これらの塔も焼けてしまいましたが、その後、少なくとも東塔は再建されたことが文献からわかっています。 発掘調査では、この鎌倉時代に再建された塔跡が、まず姿を現しました。塔の基壇(基礎の土壇)は正方形で、一辺が約27メートルもあり、高さは約1・8メートル前後と推定されます。基壇の上には、径4メートルほどの大きな穴が規則的に多数あいていました。これは塔の柱の下に置かれた礎石を抜き取った穴です。 奈良時代の塔の基壇は、鎌倉時代の基壇にすっぽりと覆われ、部分的にしか確認できませんでしたが、その規模は一辺約24メートルと推定されます。古代で
大谷大(京都市北区)は、大学で所蔵するタイの仏典写本「大谷貝葉(ばいよう)」を報道陣に公開した。ヤシの葉に、仏教の経本などをパーリ語で書き写した貝葉写本を64点所蔵するのは、国内の大学・研究機関で最も多く、世界でも珍しい。 大谷貝葉は17~19世紀の写本を集めたもので、1900(明治33)年、タイ国王のラーマ5世から東本願寺第23代法主、大谷光演へ寄贈されたものとされた。 ただ、最近の研究で10年前の1890(同23)年ごろ、真宗大谷派の僧侶、生田(織田)得能がタイ留学から帰国する際、タイの貴族から同寺第22代法主、大谷光螢へ受け渡しを託された可能性があるとした。 大谷大の清水洋平・真宗総合研究所特別研究員は「貝葉は東南アジアで散逸が進む中、大谷大のコレクションは貴重で、工芸品としても価値が高い」と説明。来年の日・タイ修好130周年に向け、両国の仏教文化などをさらに読み解く資料になるという
(法藏館・5184円) 戦時中の東南アジアで、日本の仏教者が占領地支配にどう関与したかをまとめた。従来は、朝鮮半島や中国大陸での各宗派の布教史などの研究が目立ったが、本書の対象地域では、僧侶らは宗派を超えて動員・派遣され、主に現地の宗教調査や僧侶、一般人への文化工作、いわばソフト・パワー的な活動に従事した。 具体的な人物の動きに注目した章が多い。西欧留学経験のある僧侶もおり、仏教者、研究者としての良心をぎりぎりで守りつつ活動したように読める例が目立つ。戦時中の体験から、戦後はベトナム反戦で活躍した人もいる。他方、平安時代にインドへ向かう途中で死んだ真如親王は、南方進出熱の高まりと共に顕彰の動きが拡大した。シンガポールに大仏のような像が計画され、「大東亜各住民」の「宗教を超越し」た聖地を目指した。南方… この記事は有料記事です。 残り135文字(全文490文字)
平安時代に兵火(へいか)で焼け、鎌倉時代に再建された奈良・東大寺の東塔(とうとう)が、中国・宋伝来の最新技術で建てられた、国内最大級のものだった可能性が高まった。東塔跡(国史跡)を発掘した寺が19日発表した。奈良時代の創建時より一回り大きく、国内に類例のない規模だったことがうかがえるという。 大仏殿の南東と南西に750~60年代ごろ、東塔と西塔(さいとう)が建てられた。東塔は平氏の焼き打ちに遭い、1227年に再建されたが、1362年に落雷で焼け落ちた。 寺と奈良文化財研究所、奈良県立橿原考古学研究所が、柱を立てる礎石を置いた穴や階段、石敷きなどを発掘。鎌倉時代のものとみられる基壇(きだん、土台)は一辺約27メートル、東西南北の各面が柱間3間の構造で、建物部分が約17メートル四方だった。一方、創建時の階段の端とみられる石も出土。基壇は一辺約24メートルとみられる。 現存する仏塔で最も高い京都
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