野球ゲームの移り変わりから見るプロ野球史~第10回:ペナントリーグ ホームランナイター 80年代、球界ではことあるごとに「長嶋監督待望論」が話題になっていた。 1980年限りで巨人監督を辞任した長嶋茂雄は、いわゆるひとつの文化人的な浪人生活へと突入。寝業師・根本陸夫がミスター招聘へとすかさず動いた西武、就任会見寸前までいった大洋……と、各球団の動向が毎年オフの風物詩となっていく。 そんな中、息子の一茂が87年ドラフト1位でヤクルトから指名されたことにより、一気に父もセットの「長嶋ヤクルト」誕生ムードが加速することになる。 当時の週刊誌はお祭り状態で、『週刊宝石』88年9月16日号では「これが長島ヤクルト次期監督の組閣名簿だ!」なんて勝手にコーチ人事まで進め、『週刊ポスト』88年10月21日号では独占直撃インタビュー「長島茂雄が欲しい 桑原潤ヤクルト社長の熱弁40分」が掲載(※当時は「島」表