妊婦物のAVで女優が実際に死んでも何も言わないくせして現実に被害者がいないエロゲだけ規制はおかしいよな!どうですか賛成派の方々!
児童ポルノ法の改正を巡って、アダルト向けアニメ・マンガ・ゲームも規制の対象とするべきだとする動きがでている。これに対し「表現の自由を侵す」といった反発も強い。 ■性的描写のあるアニメ・漫画・ゲームは「準児童ポルノ」 「児童ポルノ法」は1999年に成立した。この法の中で「児童ポルノ」は「18歳未満の子どもの裸や性行為などを記録した写真や電磁的記録で、性欲を興奮させ刺激するもの」と定義。2009年6月から開かれている国会で児童ポルノ法の改正を目指している。この中に、アニメ・漫画・ゲーム禁止を入れるべきだという動きが出ているのだ。 改正論議は以前から盛んだが、08年3月に日本ユニセフ協会が「性的虐待」から子どもたちを守るために発足した「なくそう!子どもポルノ」キャンペーンがきっかけとしては大きい。官民への対応を求める「緊急要望書」への署名は10万を超え、09年3月までに3度、与野党に対し提
全ては、女子高生キムチといういかにも週刊モーニングで新連載しそうな我が目を疑う商品から始まります。 夕刻。珍しく時間が取れたので、さて先ずは駆け付け一句とはてなハイクを開いた所、さる高踏*1なお題が目に飛び込んできました。 お題:清楚な女子高生に踏まれ隊 日頃女子高生から頂けるメール目当てで七面倒臭いニセ科学ナンチャラにわざわざコミットしている私としては(本音濃度:レメディくらい)、至高の存在である女子高生(本気度:長生きするBMI値くらい)を「清楚」などと限定する性根が許せません。女子で高校生なだけで十分尊いだろJK。 と言う訳で、一句。 清楚な女子高生に踏まれ隊 別に清楚でなくても。 この際キムチでも。 簡にして迸るパトスを感じさせる、我ながら良い句です。ええ、私のハイクこんなんばっかですが何か? これで良し、と投稿ボタンを押そうとして。ハタと気が付きました。 この句の二段目。この「キ
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
さいきん「ありがとう」ソングが多くて気持ち悪い的なはなしを人から聞いて、本当に多いかどうかはわかんないけどおれも多いように思ってたので納得するところがあった。親に感謝的なあれね。あの手の曲にそこはかとない気持ち悪さをおれが感じるのは「(たとえば親には)感謝すべき」的なニュアンスが見えるからだなあ。「感謝すべき」と「感謝の意を表明すべき」は全然違う話で、「感謝すべき」は内面の感情的な部分の強制に近い。「感謝の意を表明すべき」はどちらかというと礼儀の話で、社会的なコードの話だ。社会的なコードは個々人の違いを吸収して、対立を緩和するのに役立つので、社会的なコードを重視する意見にはおれは違和感を感じない。 逆からの話もあって、被害者感情を考慮するとか、裁判の判決とかで反省を感じられない的な話が出てたりするのも、感情の強制だなあとおもうことがままある。外形的に反省の意を表明すべきって話ならまだ分かる
二つほど。 問題は「性暴力を助長する」ではなく「性暴力そのもの」 問題は、性表現一般ではないし、性暴力一般でさえなく、とりあえずは、性暴力を肯定する表現です。性暴力とそうでないものの境界が曖昧だとしても、問題になっているのは曖昧な事例ではなく、規制派も反対派も「性暴力の肯定的表現」と認識しているものです。そのような表現を、性暴力被害者に対して今なおセカンドレイプ的言説が繰り返される社会において流通させることの問題です。 で、表現は、表現であると同時に、直接の脅迫でありえます。わからないようだからハッキリ言いますが、「性暴力を助長するかもしれない」じゃなくて、それ自体が性暴力なんですよ。レイプが、身体の自由に対する直接の侵害であることは説明の必要はありません。では、脅迫はどうか。脅迫は、身体の自由に対する侵害の予告であって、侵害自体ではありません。しかし、侵害の予告をもって実際の行動の自由を
ポルノ産業を本当に潰したければ http://d.hatena.ne.jp/axgx/ 子供を差別することには、誰も疑問を持っていないらしい。この問題の関係者にとっては、子供は人間ではないのだろう。 人はいま『18禁』とあまりにも軽く言うが、よく考えてみれば、それは18歳未満の人々をのけ者にする制度、すなわち、差別である。どうして誰も、この根本的な問題に目を向けないのか。 「青少年を保護するために~」「住み分けすることでしか守れない表現が~」という理由づけは、なるほど合理的ではある。南アフリカ共和国のアパルトヘイトも合理的だった。南アフリカ共和国の経済や治安は、アパルトヘイトの廃止によって大幅に後退し、人々は不幸になった。ではアパルトヘイトを続けるべきだっただろうか。 根本的な問題がお気に召さないという向きのために、別の方向からも『18禁』を攻撃しておこう。 「青少年を保護するために~」と
まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し
だから、陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、「表現の自由」を正しく行使せよ。それはつまり、「陵辱ゲーム」のような表現が、今もなお存在する圧倒的な性差別構造を解体するためにいかに有用であるか、ということを説明せよ、ということだ。 それをしない、できない、ということは、陵辱ゲームは一目で了解する限りの意味以上のものを含まないと、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。それは性差別そのものの表現であり、それ以上のなんらの意味を含まないということを、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし。上記引用部分を、ちょっと分解してみよう。 1.陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、「表現の自由」を正しく行使するべきである。2.圧倒的な性差別構造というシロモノが今もなお存在する。3.本件において、陵辱ゲームの愛好家・擁護者が「表現の自由」を正しく行
昨日の記事に付け加えることはあまりないのだけど、「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。 僕は「愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし」の述べているのだが、重要なのは前半の条件節の方。脚注でも述べているように、ここまでラディカル・フェミニズムをなぞって論を立てても、規制に100%賛成するわけではないのだ。僕は、どちらかと言えば、原則論的な「言論の自由」信奉者だ。規制には「最大限」反対。100%ではないけどね。 性も、性暴力も、暴力も、差別も、殺人も、その他どんなものであれ、表現の対象にしうる。表現したらいい。表現の内容は問題にしうる。問題にしたらいい。表現も、表現を問題にする言説も、原則としては、言論の自由という土俵の上で互いにぶつかり合うことができ、それを通じて、私たちの認識は磨かれる。それでこそ「言論の自由市場
(6月6日付エントリの続きである、6月8日付エントリの続き) 板坂耀子氏の「私のために戦うな(弦書房、2006年12月25日発行)」の117ページに「ありふれたパターン」と題された章に、こんな記述がある。 昔から恋愛映画のクライマックスになると、どんなに優しくおとなしい男性と強く積極的な女性のカップルでも、男性が女性を抱き寄せ、女性はそれに抵抗し、そして最後には必ず男の胸を押しのけ叩いていた女の手は男の首にからまって、二人はベッドに倒れ込み、結局のところ幸せになる、と指摘する。(略)これまでの映画は、国も時代も問わず、男女のラブシーンといえばまずはもう必ず、男が抱き寄せ、女が押しのけ、そして最後に女の抵抗が終わってめでたし、という図式を踏襲しつづけてきた。(略)大抵の人間なら、繰り返し見せられれば、恋愛とはこういうものと思い、それに自分を遭わせるように学習するのが普通だろう。「現実が芸術を
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があの本に冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ
id:felis_azuriさんからコメント頂きまして、次のようなブログが開設されたそうです。 あなたは悪くない http://manysided.blog85.fc2.com/ だから、同じ被害にあったあなたたちに伝えたい。 あなたは何も悪くない。どんな事情があったにしろ、あなたは悪くないのです。どんな特殊性があったにしろ、望みを捨てないでほしいのです。 悪いのは加害者であり、無理解な社会です。あなたは、何も変わってなどいない。とても素敵なところをいっぱいもっている、素敵な女性のままなのだから。 性犯罪被害に遭われた方(そして、それに対して共感を寄せる方)に向けて開かれたブログですので、皆様、立ち寄られる事をお薦めします。 …ただ、自称俗物、他称餃子(キチガイでもあるらしい)の私が紹介して良いものでしょうかね? 営業妨害にならなければいいのですが。 さて、紹介してくださった碧猫さんも性犯
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