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ブックマーク / blog.tatsuru.com (76)

  • 格差社会って何だろう - 内田樹の研究室

    「格差社会」という言葉が繰り返し紙面に登場する。 格差がどんどん拡大しているから、これを何とかしなければならないという現実的な(あるいは非現実的な)さまざまの提言がなされている。 どなたも「格差がある」ということについてはご異論がないようである。 だが、私はこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている。 「格差」とは何のことなのか? メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。 平たく言えば年収のことである。 年収数億の人もいるし、数十万の人もいる。 とくに年収が低い階層のヴォリュームがこのところ急増している。 パラサイトシングルというのも、フリーター・ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前サラリーマンも、要すれば「金がない」せいでそういう生活様態の選択を余儀なくされている。 そういう説明がなされている

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    d1021 2007/07/24
    "エマニュエル・レヴィナス老師のさらに師であるモルデカイ・シュシャーニ師は、家族を持たず、定住する家を持たず、世界を放浪し、気が向くと富裕なユダヤ人家庭に寄寓してタルムードを講じてわずかに口を糊する"
  • 内田樹の研究室 - こんなことを書きました

    『大航海』と『潮』と『熱風』と『中央公論』が同時に送られてきた。 白川静論、関川夏央さんとの対談、貧乏論、諏訪哲二さんとの対談である。 『大航海』と『熱風』は一般書店ではなかなかみつからない媒体であるから、読者サービスとしてここに掲載することにする。白川静論は25枚。ちょっと長いよ。では、どうぞ。 白川先生から学んだ二三のことがら 白川静先生は、私がその名を呼ぶときに「先生」という敬称を略することのできない数少ない同時代人の一人である。私は白川先生の弟子ではないし、生前に講筵に連なってその謦咳に接する機会を得ることもなかった。けれども、私は書物を通じて、白川先生から世界と人間の成り立ちについて、質的なことをいくつか教えて頂いた。以下に私が白川先生から学んだ二三のことがらについて私見を記し、以て先生から受けた学恩にわずかなりとも報いたいと思う。 私が白川先生に学んだ第一のものはその文体であ

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    d1021 2007/06/12
    "白川先生から学んだ二三のことがら"↓茂木制約
  • 奥州三昧ツァー - 内田樹の研究室

    菅原美喜子さんの主宰する多田塾奥州道場で多田先生の講習会があるので、岩手県までゆく。お供はいつものウッキー。 五月は広島の講習会に行き、全日でお会いし、五月祭で説明演武を拝見して(帰りに赤門前のそば屋でおそばもごちそうになり)、奥州でもまる二日間。トータルすると、この一ヶ月のうち6日間多田先生とご一緒したことになる。 多田先生のそばにいると、心身四肢五臓六腑が細胞レベルから活性化してくる。 こういう感じを経験のない人に伝えるのはなかなか困難であるが、熱く細かい波動が先生から送られてくる。 これはその場にいる全員が感知してよいはずであるが、不思議なもので、あれほどはっきりした波動に触れながら、「感じない」人もやはりいる。 どういう人が感じ、どういう人が感じないのか。この区別がだんだんわかるようになってきた。 良導体の人は感じ、そうでない人は感じない。 「良導体」というのは、その波動を次のひ

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    d1021 2007/06/11
    "多田先生のそばにいると、心身四肢五臓六腑が細胞レベルから活性化してくる。""かすかな波動が先生から送られてくる。""中尊寺で金色堂を拝観。""「霊気」""喜多流"↓好奇心 →6/8観世
  • 国語教育について - 内田樹の研究室

    大学院のゼミでは国語教育について論じる。 国語力の低下が子どもたちの学力の基盤そのものを損なっていることについては、すでに何度か言及した。 何が原因なのかについては諸説があるが、「言語のとらえかた」そのものに致命的な誤りがあったのではないかというラディカルな吟味も必要だろうと私は思う。 「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。 だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。 構造主義言語学以後(つまり100年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。 先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。 とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。 私が何かを書く

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    d1021 2007/06/06
    "国語教育はなぜか「意味」に拘泥する。""そのような言葉に実際に触れて、実際に身体的に震撼される経験を味わう以外に言語の運用に長じる王道はない。"/"古人の心を訪ねてみても"以下の誤りについて。→6/4斎藤環
  • 辺境で何か問題でも? - 内田樹の研究室

    次々といろいろな人がインタビューに来るので、誰にどんな話をしたのか忘れてしまう。 昨日は Sight という雑誌のインタビュー。 ロッキングオンの姉妹誌だというので、ポップスの話でもするのかなと思って待っていたら、ポリティカル・イシューの専門誌だった。 渋谷陽一くん(別にともだちじゃないけど、なんとなく同世代的タメ口が許されそうな・・・)は「これからは政治の季節だ」ということで Sight の誌面を刷新したそうである。 その意気や善し。 先月号のラインナップを見たら、特集が憲法で、巻頭インタビューが吉隆明。高橋源一郎と斎藤美奈子の対談。藤原帰一、小熊英二のインタビューなどなど「60年代テイスト」のまさったメニューである。 インタビューにいらしたのは副編集長の鈴木あかねさん。 私はインタビュアーのご要望に合わせて話す内容をころころ変える迎合タイプのインタビュイーなので、穏健で謙抑的なことを

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    d1021 2007/05/31
    陶鋳力は「辺境性」ではなく宗教的意義を持っている。↑Passion →5/20猫猫 3/19恵心僧都 5/30茂木 5/29プロフェッショナル 06/12/1内田
  • 明日は明日の風邪をひく - 内田樹の研究室

    げほげほ。 風邪がまだ治らない。 ごろ寝をしながら、『映画秘宝』と『文藝春秋』を読み、そのままいぎたなく昼寝。 気分は悪いが、よい気分である。 矛盾しているようだが、そういうものなのである。 昼寝から起き出して、寝汗を拭う。 『子どもと体育』という雑誌から頼まれた「身体の感受性を育む体育」という原稿の締め切りがあったので、咳き込みながら書く。 律儀な男である。 『文藝春秋』に送った「昭和人論」は、「論旨がよくわからない」と戻されて来た。 書き直しである。 締め切り間際に書き飛ばしたせいで論旨不明瞭になったわけであるが、あと1週間延ばしてもらえるなら、最初からそう言ってくれればよいのに。 私のように決して(ほとんど、たいてい、しばしば)締め切りを破らない人間に対しては、「ほんとのデッドライン」を示して欲しいものである。 dead line というのは「死線」である。「それを越えると射殺される

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    d1021 2007/05/25
    "『文藝春秋』に送った「昭和人論」は、「論旨がよくわからない」と戻されて来た。""吉本隆明のことを書くなら、江藤淳のことも書いてくれという編集者からのメモがついていた。""植芝盛平先生"
  • また風邪をひいた - 内田樹の研究室

    風邪をひいた。 夜中に目が醒めたら喉が痛い。 げ。 起き出して「ルル顆粒」を飲む。 朝起きても、痛みが引かない。 困った。 このあと6月3日まで一日も休日のない「レストレス」な日々が続く。 こんなところで風邪をひいたのでは世間さまに顔向けができない。 神様、風邪治して、と念じつつ二度寝。 10 時に三菱銀行の方々がお見えになる。 資産運用(私もついに「運用すべき資産」というものを蔵する身となったらしい)についていろいろと御指南を受ける。 私は「自分のよく知らないことについては、専門家に丸投げ」することにしている。 IT環境整備はIT秘書室に丸投げ、税金はマイ税理士に丸投げ、当然資産運用は三菱東京UFJ銀行芦屋北支店に丸投げである。 あなたはつい昨日「シロートの前に『私は専門家です』といって登場する人間は10中8,9詐欺師である」と書いていたではないか、前後矛盾しないのかというお怒りはあるだ

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    d1021 2007/05/23
    "「プレイボーイ・インタビュー」というのは、この雑誌の二つの名物のうちの一つ(もう一つはプレイメイトのヌードグラビア)である。"
  • ユニバーシティ・コン - 内田樹の研究室

    私立大学が競って薬学部を新設したのは数年前の話である。 女子の「実学志向」に照準した戦略である。 初期投資が巨額であるので、財政に余裕のある大きな学校法人しか参入できない。 このスケールメリットで小規模校(うちみたいな)をマーケットから駆逐する・・・という、身も蓋もない言い方をすれば「これからは大学も『金持ちが勝ち続けるゲーム』にさせていただきます」という宣言と私は受けとった(ちょっとひがみっぽいけど)。 でも、おおすじではそういうことである。 しかし、常々申し上げていることであるが、「集団の一定数だけがそれを行う場合には利益が多いが、閾値を超えると不利益の方が多い行動」というものが存在する。 たとえば、「放置してある物品はすぐに私物化する」という行動は、そういうことを行う人が一人だけで、ほかの人はそうしないという場合にはその一人にとってたいへん有利な戦略である。 しかし、みんながそういう

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    d1021 2007/05/22
  • 私的昭和人論 - 内田樹の研究室

    授業と会議のあいまに、ジブリに「貧乏で何か問題でも?」を書き、共同通信に「ネットカフェ難民」を書き、文藝春秋の「私的昭和人論」を書く。 ほとんど「ライティング・マシン」である。 「私的昭和人論」は字数がたっぷりいただけたので、「昭和人のエートス」について書く。 よい機会だったので、「昭和人」とはどういう人のことか、考えてみた。 「明治人」という人物類型がある。 でも、「大正人」という言い方はなされない。私は聞いたことがない。 「昭和人」という言い方はどうであろう。 たぶん成立するであろう。成立しなければ、「昭和人のエートス」というタイトルで原稿依頼があるはずがない。 どうして、明治と昭和だけに特殊な人物類型が出現したのか。 おそらくこの二つの時代が「断絶」を含んでいるからである。 私はそう思う。 「明治人」「明治生まれの人間」を意味しない。そうではなくて、「明治的」な人間のことである。 「

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    d1021 2007/05/19
    "一読して、「じ~ん」としてしまった。「転向論」にはほとんど涙が出そうになった。""私はこれを読んで、以後絶対に「日本的小情況」を見くびらないことを自戒のことばとしたのである。"→5/17保守政権,育てる ↓日下
  • 音楽との対話 - 内田樹の研究室

    締め切りが迫っているので、日記なんか書いている暇はないのであるが、昨日の「音楽との対話」で心温まる事件があったので、ひとことだけ。 「音楽との対話」というのは、音楽学部の先生と文学部、人間科学部の教師とが何組かペアになって一組が三週にわたり、異文化交流・異種格闘技をする様子を学生さんにご覧いただくという結構の授業である。 よいアイディアである。 私の相方は声楽の斉藤言子先生である。 斉藤先生とは「会議仲間」であって、この二年間たいへん長い時間を会議で共に過ごした。 「会議仲間」というのは「戦友」というか、「ともにまずいものを喰った仲間」というか、「思わず、とんとんと相手の肩を叩きたくなる」関係である。 というわけで、斉藤先生とは仲良しなのである(斉藤先生のご主人が日比谷高校で私のイッコ先輩という奇縁もある)。 私は音楽に限らず人間の発する音韻の選択に興味があり、声楽家の斉藤先生にじっくりと

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    d1021 2007/05/17
    "私は音楽に限らず人間の発する音韻の選択に興味があり"→5/12転妻
  • 今日もライティング・ハイ - 内田樹の研究室

    『大航海』のための白川静論20枚をようやく脱稿。 白川先生の追悼特集号に寄稿を依頼されたのである。 名誉なことである。 しかし、GWの忙しい間だったので、集中的に執筆する時間がとれない。 1時間、2時間とぶつ切りで執筆時間を確保して、学校に行く前の時間や、昼休みにカップヌードルを啜りながら書いた。 そのせいで家の中はぐちゃぐちゃになってしまった(掃除もしないで、ずっと机に向かっていたからである)。 締め切りに二日遅れてようやく書き上げて、送稿。 ふう。 五月は締め切り原稿が9つある。だいたい3日に1書いている勘定になる。 「エピス」と「水脈」と「大航海」が終わったので、残り6つ。「文藝春秋」と「子どもと体育」と「熱風」と「共同通信」と「日経済新聞」と「月刊武道」。 月から金まで毎日フルに大学に出勤する合間に、京都に山菜をべに行ったり、広島に多田先生の講習会に行ったり、東京で英文学と合

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    d1021 2007/05/12
    "あらゆる無駄や愚行さえをも「燃料」として使用せねばならぬ状況に自分を追い込めば、理論的に人生に無駄な瞬間は存在しないからである。"
  • 日本語壊滅 - 内田樹の研究室

    産経新聞が「大丈夫か日語」というシリーズ記事を掲載している。 たいへん興味深い記事があったのでご紹介したい。 まずは携帯メールによる語彙の変化についての研究報告。 日大学文理学部の田中ゆかり教授(日語学)は「(携帯メールのコミュニケーションで)新たな語彙を獲得するのは難しい」とみる。そこでのやりとりは親密な間柄の「おしゃべり」に限られるからだ。丁寧な言い回しや敬語といった配慮表現が絵文字や記号に取って代わられることも多く、言葉を尽くして伝える訓練にはならない。 「短文化」も加速している。田中研究室に在籍していた立川結花さんが平成17年、大学生の携帯メール約400件を分析したところ、1件平均の文字数は約30字で、5年前の調査結果の3分の1にまで減っていた。 「相手に悪く思われないためには、30秒以内に返信するのが暗黙のルール。送受信の頻度は上がり、極端な場合、1文字だけのメールがやり取

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    d1021 2007/05/09
    →3/29魅惑の万年筆
  • コミュニケーション・プラットホーム - 内田樹の研究室

    予備校が毎年行っている大学入試の「現代文頻出著者」ランキングが今年も発表された(ほんとは発表されていないのだけれど、そこはそれ「蛇の道は蛇」で)。 私はこのランキングに 05 年度入試に初チャートイン(10位)、06 年度は第6位であった。 で、今年は2位。 1位は養老孟司先生。 同率2位が鷲田清一先生で、3位が茂木健一郎さん。 というわけで、1位から3位まで全員「おともだち」でした。 不思議ですね。 ちなみに4位が正高信男、見田宗介。5位が小川洋子、佐藤卓己、夏目漱石。6位が赤瀬川原平、河合隼雄、斎藤孝、堀江敏幸、三浦雅士、山崎正和。7位が青木保、阿部謹也、内山節、梅原猛、大岡信、大庭健、加藤周一、佐伯啓思、村上陽一郎、四方田犬彦(敬称略させていただきました)、と続く。 このランキングには大学の先生が多いけれど、もちろん「学者ランキング」ではない。 学者としては「中の下」である私が入試問

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    d1021 2007/05/08
    "大学入試の「現代文頻出著者」ランキング""「おばさん」""なんとなく「わかりやすい」ような印象""入試出題者が問題文を選ぶときの条件は「私はこの文章の意味を段階的に理解できた」という実感"
  • 憲法の話 - 内田樹の研究室

    5月3日は憲法記念日なので、いろいろなところから憲法についてコメントを求められる。 一つは毎日新聞の「水脈」に書いた。 今日の夕刊に掲載されるはずだが、一足お先に公開しておく。 改憲の動きが進んでいる。一部の世論調査では、国民の6割が改憲に賛成だそうである。大学のゼミでも「もうすぐ憲法が改正されるんですよね」とあたかも既成事実であるがごとくに語る学生がいて驚かされた。 九条第二項の政治史的意味についての吟味を抜きにして、「改憲しないと北朝鮮が攻めてきたときに抵抗できない」というような主情的な言葉だけが先行している。 私は改憲護憲の是非よりもむしろ、憲法改定という重大な政治決定が風説と気分に流されて下されようとしている、私たちの時代を覆っている底知れない軽薄さに恐怖を覚える。 改憲とは要すれば一個の政治的決断に過ぎず、それが国益の増大に資するという判断に国民の過半が同意するなら、ただちに行う

  • 東京でお仕事 - 内田樹の研究室

    東京出張。仕事は三つ。 福岡伸一先生との対談、クロワッサンの取材、それから諏訪哲二先生との対談である。 福岡先生とお会いするのは二度目である。 前回は新宿のホテルのバーで隣り合わせて座って、Y野屋のG丼の原価の秘密について、さらにはMシシッピ河流域に展開するG肉マフィアの恐るべき真相について、「ここだけの話ですが」をいろいろと伺った。 「こんな話をAメリカでしたら、翌日はHドソン河で簀巻きにされて浮いてます」とF岡先生は遠い目をして語っていたのである。 わお、めちゃテリブルですね、F岡先生(っていまさら伏字にしても仕方がないが)。 当然のことながら、今回もテリブル話で盛り上がったのであるが、残念ながら、私たちの対談を掲載するメディアは「中学校受験向けの学習塾に配布されるフリーペーパー」であったので、そういう話はすべて「カット」されるはずである。 どうしてこのようなメディアで福岡先生が連載対

  • 「株式会社という病」を読む - 内田樹の研究室

    平川くんの『株式会社という病』(NTT出版)のゲラが届いたので、東京へ向かう新幹線の車中で読み始める。 平川くんはブログ日記で、このを書くのにずいぶん苦労したと書いていた。 彼が「苦労する」というのはどういうことだろう。 言いたいことをはやばやと書ききってしまったので、残りの紙数を埋めるのに苦労するということは学生のレポートのような場合にはよくあることである。 だが、平川くんのような書き手の場合に「書くネタが尽きる」ということはありえない。 ということは、彼がこので「手馴れた道具」では論じることの困難な種類の主題を扱っているということである。 平川くんをして困惑せしめる主題とは何であろう。 一読して、その困惑が少しだけわかったような気がしたので、そのことについて書きたい。 彼は久が原の町工場の長男として育った。 その少年時代の親たちの働きぶりや、彼のまわりにいた工員たちの姿を活写すると

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    d1021 2007/04/30
    "一流大学を出て、一流のキャリアをもつ人々が入ってきて、てきぱきと仕事を片付けて、売り上げを立てて、シビアな人事考課をしているうちに会社は誰も「歓声」を上げない場所になった。"
  • 対立するものを両立させる - 内田樹の研究室

    対立するものを対立したまま両立させることが「術」である、ということを前に甲野善紀先生から伺ったことがある。 なるほど、とそのときは深く納得したのだが、どう「なるほど」なのか実はよくわからなかった。 そういう言葉は小骨のように喉に刺さる。 魚の小骨はいつか溶けて消えてしまう。人が気づかないうちにちゃんと唾液が多めに分泌されて溶かしてしまったのである。 同じことは知的な意味での「小骨」についても起きる。 どうも腑に落ちなくて、気になって仕方がないことがあると、「気になること」に関連するできごとに遭遇するチャンスが増える。 「あ、あれは『このこと』だったのか」ということに気づく機会が(それがつねに解決をもたらすわけではないが)増える。 「対立したものを対立したまま両立させる」のは何のためなのか。 そのことを久しく考え続けていた。 『私家版・ユダヤ文化論』の終わりのほうに、そのことの関連してこん

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    d1021 2007/04/29
    "多田先生はかつて「動きの終わった状態に向かって自分を放り込む」という表現をされたことがあった。""光岡先生は「リールが釣り糸をたぐりよせるように動く」という言い方をされたことがある。"
  • 磯江毅さんの展覧会に行く - 内田樹の研究室

    磯江毅さんの展覧会(「存在の美学」)を見になんばの高島屋に行く。 磯江さんは山画伯のスペイン苦学時代の友人で、写実主義の画家である。 絵を拝見するのははじめてである。 順繰りに6人の画家の作品を眺めてから、山画伯と磯江さんにシロートの適当な感想を申し上げる。 写実絵画からは腐臭がする。 どうしてかしらないけれど、写実が端正で緻密であればあるほど、そこに描かれているものから腐臭や屍臭に似たものが漂ってくる。 それがぼくはわりと好きなんですけどね、と申し上げる。 磯江画伯がぐっと膝を乗り出して「そうなんですよ」と言う。 「写実主義の絵画には時間が塗り込められていますから。」 それはどういうことですか、とお訊ねする。 写実画はものすごく時間がかかるのだそうである。 今回出品されていた葡萄の絵の場合、制作に一月かかっている。 葡萄は当然腐る。 腐ってどんどん形態が変わってしまっては写生できない

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    d1021 2007/04/24
    "磯江毅さんの展覧会(「存在の美学」)""写実主義""抽象画と具象画の差異""「動的均衡」(dynamic equilibrium)というのが生命体の本質である。""音楽が「時間」意識の涵養のための技芸""「制作に要する時間」"
  • 分子生物学的武道論 - 内田樹の研究室

    昨夜読んだ福岡伸一先生のの中に「武道的に」たいへんどきどきする箇所があったので、それを早速合気道の稽古に応用してみることにした。 それはトラバでM17星雲さん(ごぶさたしてます)が言及している箇所と同じところなのだが、「どうして原子はこんなに小さいのか?」というシュレディンガーの問いについて書かれたところである。 どうして原子はこんなに小さいのか? これは修辞的な問いであって、実際の問いは「どうして生物の身体は原子に比べてこんなに大きいのか?」と書き換えねばならない。 原子の直径は1-2オングストローム(100億分の1メートル)。 つまり、仮に1メートル立方の生物がいたら(そんなかたちの生物見たことないけど)は原子の100億の3乗倍の大きさがあることになる でかいね。 どうして、生物はこんなに大きいのか? 理由を福岡先生はこう書く。 「原子の『平均』的なふるまいは、統計学的法則にしたがう

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    d1021 2007/04/22
    "原子の『平均』的なふるまいは、統計学的法則にしたがう。""精度は、関係する原子の数が増すほど増大する。""「例外的ふるまい」をする粒子の数""平方根の法則""単独では決して達成することのできない「秩序」の顕現"
  • 生物と無生物のあいだ - 内田樹の研究室

    福岡伸一先生の新著『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)を読む。 あまりに面白くて、どきどきしながら一気読みしてしまう。 みなさんもぜひ買って読んで下さい(でも、残念ながらまだ店頭にはありません。五月新刊なのであと少しお待ちを。私は帯文を書くために原稿のハードコピーを読ませていただいたのです)。 理系の人の書くものは面白い。 養老孟司、池田清彦、茂木健一郎、池谷裕二、佐々木正人、スティーヴン・ストロガッツ、ジュリアン・ジェインズ、リン・マクタガード・・・どれも「がつん」とくる。 一方、社会学の人や歴史学の人や心理学の人ので読んで「はっ」と胸を押さえるというような刺激的なものにはこのところ出会っていない(私のアンテナにヒットしないだけで、どこかにスケールの大きな社会学者がいるのかも知れないけれど、残念ながら、まだ出会う機会がない)。 理系の人の文章はロジカルでクールで、そのせいで「論理のツ

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    d1021 2007/04/21
    "福岡伸一先生の新著『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)""「もし科学者たちが自分の追っているものの正体を知りたければ、自分が何であるかを知ればよい」"→4/20福耳