李 典(り てん、生没年不詳)は、中国の後漢末の武将。字は曼成(まんせい)。兗州山陽郡鉅野県[注釈 1]の人。子は李禎その他1名。曹操に仕えた。『三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。 正史の事跡[編集] 従父の李乾は曹操に付き従って武功を立てたが、兗州が乱れた際に殺された。後を継いだ李整(李乾の子)も亡くなると、李典は潁川郡潁陰県令になり、中郎将となって李整の軍を率いた。李典は若いころ学問を好み、軍事は好きではなかった。先生について『春秋左氏伝』をはじめ多くの書物に親しんだ。曹操はそれを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。離狐郡の太守に昇進した。 建安5年(200年)の官渡の戦いでは、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹などを曹操軍に輸送し供給した。袁紹が敗れると裨将軍に任命され、東平国の安民に駐屯した。 建安7年(202年)、曹操が黎陽の袁譚