『聖蹟図志』中の図を一部抜粋 左下が丸山古墳、右上は石室および石棺の詳細 上空から見た丸山古墳(1948年当時)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 丸山古墳のステレオ空中写真 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 埋葬者が誰であるかは近世の江戸時代中期ころから論争があった。天武天皇と持統天皇の合同陵としては、丸山古墳とする説と、南西に1kmほど離れた場所にある野口王墓とする説とにわかれていた。 江戸時代後期から明治時代にかけて幾度か石室内部の調査が行われている。寛政8年(1796年)『惟徳実見記』で堤惟徳(つつみこれのり)は水が腰に及ぶ中、玄室の長さを3丈、幅1丈半と計測した。嘉永元年(1848年)の北浦定政『打墨縄(うつすみなわ)』にも記録がある。嘉永7年(1854年)、津久井清影『聖蹟図志』によれば、石室内には2つ