豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守(ちくぜんのかみ)」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期(しょくほうき)研究)の研究でわかった。 播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。 約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。 秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。 しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年~78年12月は「筑前守」、同月~81年7月は「藤吉郎」だった。 秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部
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