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メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体: 不連続的差異論とは何ぞや?
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メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体: 不連続的差異論とは何ぞや?
『メルロ=ポンティ 可逆性』を拾い読みしているが、ここで、乱暴だが、直観で、メルロ=ポンティの思... 『メルロ=ポンティ 可逆性』を拾い読みしているが、ここで、乱暴だが、直観で、メルロ=ポンティの思想を考えてみたい。 リヴァーシブルな「襞」や両義性という用語が、裏表紙に書かれている。これは、PS理論から見ると、実にわかりやすいことである。 これは、i*(-i)の即非事相を、メディア・ポイントの連続面で捉えた観念用語であろう。 メルロ=ポンティの身体とは、メディア・ポイントの連続的身体面であるように思える。ここでは、対立であり、且つ、一如(いちにょ)であるという事相が発生する。しかし、力点は、後者の一如・一体性にあるように思える。だから、メディア・ポイントの連続面の思考であると思えるのである。 問題は、身体性である。なぜ、身体論なのか。それは、思うに、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と言ったことと関係するように思えるのである。 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において