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いわれなき註解となって/きみは/そこへ佇つな (石原吉郎と文学教育) : 井口時男のLIBRARY
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いわれなき註解となって/きみは/そこへ佇つな (石原吉郎と文学教育) : 井口時男のLIBRARY
5月19 いわれなき註解となって/きみは/そこへ佇つな (石原吉郎と文学教育) カテゴリ:国語教育文学 ... 5月19 いわれなき註解となって/きみは/そこへ佇つな (石原吉郎と文学教育) カテゴリ:国語教育文学 「日本文学」第56巻8号(07年8月10日発行)p2~10 私は石原吉郎の詩のこの一節を、最初の著書『物語論/破局論』の扉にも掲げ、このブログのタイトル部分にも掲げた。この詩句への思いを語った文章があったので掲載しておきたい。 本文は日本文学協会という会員に教員の多い学会の田中実氏に依頼されて学会誌「日本文学」に寄稿したもの。田中氏の文学教育論を批判する結果になったが、その部分は、本文があまりに長くもなり、このブログでの掲載趣旨に直接関係もないので、省略した。 私は、教員が「真理=権威」を背負って語ろうとすること自体が根本的な間違いなのだと思っている。文学には「客観的な」真理などない。あるのは「主体的な」真実だけである。 いわれなき註解となって/きみは/そこへ佇(た)つな いわれなき註解