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嫌うことの自信: 極東ブログ
昨日、「嫌うことの自由」という話を書いたあと、少し心に引っかかっていたことがあった。「嫌うことの... 昨日、「嫌うことの自由」という話を書いたあと、少し心に引っかかっていたことがあった。「嫌うことの自由」ということと、「誰かを嫌うことで、他者と共感を得ようとすること」の差異のようなものである。 単純に言うなら、「誰かを嫌うこと」と「誰かを嫌いだと言うこと」の違いである。 言うまでもないが、ネットの世界は、「誰かを嫌いだと言うこと」に溢れている。嫌いなら嫌いでいいじゃないか、嫌うのも自由だし、勝手に一人で嫌っていたらいい、はずなのに、ネットでは(ネット以外でもそうだろうが)、「誰かを嫌いだと言うこと」に溢れている。どういうことなのか? 何かが嫌いだという自分の思いに承認を求めているのだろう。 なぜ、個人的な嫌悪に承認が必要なのだろうか? そんなの個々人の自由でいいじゃないかというのが昨日の話であったが…… 実際は、そうした個人の沈黙の思いで閉じていなくて、嫌いであることの承認が求められている
2020/02/26 リンク