エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント1件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
後村上天皇陵〔河内長野市寺元〕 父帝の遺志を継いで戦い続けた「武闘派」天皇〈後編〉 : IL PELLEGRINAGGIO 古社寺巡拝記
前編はこちら後村上天皇陵〔河内長野市寺元〕 父帝の遺志を継いで戦い続けた「武闘派」天皇〈前編〉 戦... 前編はこちら後村上天皇陵〔河内長野市寺元〕 父帝の遺志を継いで戦い続けた「武闘派」天皇〈前編〉 戦塵 La battaglia 正平七年(1352)三月、足利義詮の軍勢は前月より南朝軍に制圧されていた京都を奪還。退却した南朝軍は後村上天皇の行在所がある男山八幡(石清水八幡宮)に籠り、足利軍を迎え撃った。 楠木正儀らの奮戦もあったものの、三万に膨れ上がった足利軍の威勢に対しては如何ともし難く、包囲戦は長期に及んだ。兵糧が枯渇し始めた南朝軍からは、足利方に降る者も現れた。 投降者によって城内の様子が敵に知られれば天皇に危険が及ぶ。五月十一日の夜、後村上天皇はわずかな側近とともに包囲網を脱出し、大和賀名生へ戻ることとなった。 後村上天皇は紀伊の住人山本判官が献上した黄糸縅【きいとおどし】の鎧を身につけ、栗毛の馬に白鞍を置いて跨がった。幼い頃より北畠父子とともに戦場に出ていただけあって、さすがの堂



2021/05/02 リンク