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前投稿で、《主語をはっきりさせて日本語が成り立つかどうかの問題があるんですよね》(古井由吉)と引... 前投稿で、《主語をはっきりさせて日本語が成り立つかどうかの問題があるんですよね》(古井由吉)と引用した。あるいはそれにかかわって次ぎのような引用もした。 日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上に、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正全集12 P86-87 ) 言語は集団的なものです。だから、個人は言語の習得を通して、集団的な経験を継承するということができる。つまり、言語の経験から出発すれば、集団心理学と個人心理学の関係という厄介な問題を免れるのです。ラカンは、人が言語を習得することを、ある決定的な飛躍として、つまり、「象徴界」に入ることとしてとらえました。その場合、言語が集団的な経験であり、過去から連綿と受け継がれているとすれば、個人に、集団的なものが存在するということができます。 このことは、たとえば、