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鎌倉はどこまでが鎌倉か? | Kousyoublog
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鎌倉はどこまでが鎌倉か? | Kousyoublog
鎌倉はどこまでが鎌倉か?以下松尾剛次著「 鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー) 」... 鎌倉はどこまでが鎌倉か?以下松尾剛次著「 鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー) 」より。 鎌倉時代、首都的な機能を備えていた都市鎌倉には鎌倉とそれ以外とではっきりとした違いがあった。例えば平安京が洛中と呼ばれたように鎌倉とされる地域一帯は「鎌倉中」と呼ばれ、まず行政単位として鎌倉中は保、鎌倉外は里という制度が敷かれ、各保には保奉行人という責任者が置かれていた。 鎌倉中の内と外との明確な区切りは、中世の境界がグラデーション的な観念であったことを反映して、当然のことながら曖昧ではあるが、鎌倉中の境として、東は六浦(現在の横浜市金沢区六浦)、西は稲村ヶ崎(鎌倉市)、南は小坪(逗子市小坪、北は山内(鎌倉市山ノ内)、または稲村ケ崎に変えて片瀬川(藤沢市片瀬地区)であったとされる。鎌倉時代を通して定期的に鎌倉中と外とを聖別し、悪鬼を鎌倉の外に追い払う祭礼「四境祭」が執り行われてお