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水木しげると手塚治虫 - 漫棚通信ブログ版
戦後マンガの二大巨頭をあげるとするなら、手塚治虫に対抗するのは白土三平か、横山光輝か、はたまた水... 戦後マンガの二大巨頭をあげるとするなら、手塚治虫に対抗するのは白土三平か、横山光輝か、はたまた水木しげるか。誰になるのでしょう。 水木しげる1922年生まれ、手塚治虫1928年生まれ。1965年、手塚治虫がW3事件で少年マガジンから離れたのち、少年マガジンの方針転換により、貸本マンガから最初にひっぱられてきたのが水木しげるでした。すでに43歳、前年にガロが創刊され、貸本時代の極貧から一息ついたところ。水木しげるのメジャー進出そのものが手塚治虫との因縁があったことになります。 同時代に手塚治虫という巨星が存在するわけですから、意識しないわけはない。水木しげるも手塚についてはフクザツな気持ちを書いています。 水木しげるが紙芝居を描き始めた1951年ごろ、手塚のマンガを読んで「アメリカのディズニー漫画の日本支店だな」と感じたと。画家になる夢をまだ持っていた水木しげるにとっては、少年マンガはすべて
2015/12/01 リンク