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漱石の「猫」の見たアメリカ─日系移民一世の日本語文学──
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[戻る] 漱石の「猫」の見たアメリカ─日系移民一世の日本語文学── 日比 嘉高 『〈翻訳〉の圏域』筑波大... [戻る] 漱石の「猫」の見たアメリカ─日系移民一世の日本語文学── 日比 嘉高 『〈翻訳〉の圏域』筑波大学文化批評研究会編集・発行、2004年2月、pp.227-243 はじめに 漱石が描いた愛すべき猫「吾輩」はビールを飲んで水甕で溺死してしまったが、私の知る限りでも、この猫は少なくとも一二〇回以上生き返っている。ある時は「犬」の吾輩として家庭に潜り込み、ある時は「蚕」の吾輩となっていかにして蚕を飼うかを語った。そしてここで私が論じようとしている小説においては、吾輩は死んで廃棄されたあと隅田川で蘇生し、そのまま横浜からサンフランシスコに渡った。吾輩は移民したのである。 夏目漱石の「吾輩は猫である」の追随作、翻案、続編は、膨大な数に上る(1)。このうち、漱石存命中に書かれた「移民した猫」をめぐる異色の長篇小説が、ここで取り上げる保坂帰一の「吾輩の見たる亜米利加」という作品である。渡米した猫が