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絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」: シンジの“ほにゃらら”賛歌
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絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」: シンジの“ほにゃらら”賛歌
絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」 映画「溺れるナイフ」(山戸結希監督)を観た実感... 絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」 映画「溺れるナイフ」(山戸結希監督)を観た実感として、少女漫画原作の女子中高生用のよくあるジャンル映画とはかけ離れた映画であることにまず驚愕する。一種の極北映画。ロベール・ブレッソンと柳町光男を掛け合わせたような作風に戦慄をおぼえた。 画面をところ狭しと予測不可能な動きで飛び回る菅田将暉とそれに必死で食らいついていく小松菜奈。画面を見ているだけ、人の動きを見ているだけでこれは映画だ。ここには映画しかない。という感慨が喜びとともに溢れてくる。 ただ、映画「溺れるナイフ」をこの映画だけで完全に理解することは難しいと思うので補助線として、柳町光男の「火まつり」を参考映画としてあげておきたい。 「火まつり」の主人公(北大路欣也)は野蛮で野卑で、野生そのものを体現したかのような男だ。彼は不遜にも自分を神に愛し愛される男だと自負していた。そして彼は