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0156 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
どこもかしこも焼け焦げていた。東京はトタンやブリキをトンカチで張り付けたバラックで修繕されていた... どこもかしこも焼け焦げていた。東京はトタンやブリキをトンカチで張り付けたバラックで修繕されていた。そんな敗戦まもない昭和22年、大阪書房の雑誌「新風」で、林房雄が「これからの日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」と発言した。久米正雄がその文芸動向を「中間小説」と呼んだ。 同年、大地書房が「日本小説」を(水上勉(674夜)の命名)、新潮社は「小説新潮」を、それぞれ創刊した。高見順、丹羽文雄、坂口安吾(873夜)、武田泰淳(71夜)、川口松太郎、大佛次郎(458夜)、獅子文六、広津和郎らが一斉に書きまくった。ついで二誌に加えて戦前からの「オール物」「講談倶楽部」、新たな「別册文藝春秋」が中間小説化し、朝日は石坂洋次郎『青い山脈』の、毎日は丹羽『人間模様』の連載を始めた。 バラックが急造ビルとモルタル住宅に変わりつつあった昭和25年(1950)、井上靖が『闘牛』(文藝春秋)で芥