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祐天と「生類憐み」政策 - 王子のきつね on Line
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祐天と「生類憐み」政策 - 王子のきつね on Line
はじめに 寛文12(1672)年の「羽生村事件」で活躍した祐天(1637-1718)は、貞享3(1686)年、50歳で浄土宗教... はじめに 寛文12(1672)年の「羽生村事件」で活躍した祐天(1637-1718)は、貞享3(1686)年、50歳で浄土宗教団を引退し、江戸牛嶋で隠遁生活をおくっていた。しかし、元禄12(1699)年、5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院のはたらきかけで、浄土宗十八壇林のひとつ生実(おいみ)の大巌寺の住職に抜擢された(63歳)。そののち、元禄13(1700)年に飯沼弘行寺の住職(64歳)、宝永元(1704)年に江戸小石川伝通院の住職(68歳)を歴任した。宝永2(1705)年の桂昌院の死と同6(1709)年の綱吉の死ののちも、その地位にとどまり、正徳元(1711)年には浄土宗総本山増上寺の住職となり、大僧正に任ぜられた(75歳)。 一介の僧侶浪人にすぎなかった祐天を、浄土宗教団の最高位にまで押し上げたのは、桂昌院をはじめとする大奥の勢力であった。これについてはほかの記事で考察したい。しかし同時