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東萊府 - Wikipedia
東萊府(とうらいふ)は、現在の釜山広域市東萊区に置かれた朝鮮王朝の地方行政機関。単に地方行政機関... 東萊府(とうらいふ)は、現在の釜山広域市東萊区に置かれた朝鮮王朝の地方行政機関。単に地方行政機関であるのみならず、中世以降近代初頭までの日朝関係において、朝鮮側の外交窓口として重要な機関であった。 正式名称は東萊都護府で、長官は東萊都護府使(従三品相当)だが、一般に東萊府・東萊府使と呼ばれている。 歴史[編集] 新羅以降、現在の釜山広域市域の大部分を管轄する東萊郡が置かれ、高麗時代には東萊県となった。朝鮮王朝でもはじめは東萊県として位置づけられていたが、1547年に東萊都護府に昇格された。文禄の役では緒戦の攻撃目標となり、東萊府使宋象賢は降伏を拒否して戦死した(東萊城の戦い)。乱中の一時期、防衛失敗を問われて東萊県に降格されたが、1599年に東萊都護府が再設置された。 近世日朝外交の窓口[編集] 朝鮮時代後期(江戸時代)、東萊府は釜山の倭館を管轄し、対馬藩との交渉にあたった。江戸幕府と朝鮮