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矢島藩 - Wikipedia
矢島藩庁の遺構である矢島陣屋の水堀 矢島藩(やしまはん)は、江戸時代初期、および明治時代初期の藩の... 矢島藩庁の遺構である矢島陣屋の水堀 矢島藩(やしまはん)は、江戸時代初期、および明治時代初期の藩の一つ。羽後国(旧出羽国)由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)の矢島陣屋(別称:八森陣屋)に政庁を置いた。藩主は生駒家。 概略[編集] 讃岐国高松藩(17万1800石)の藩主であった生駒高俊は、家中不取締りを理由に領地を没収され、堪忍料として矢島1万石を与えられた。さらに、高俊の嫡男・高清が弟の俊明に2000石を分知したため、以降の生駒氏は8000石の交代寄合(最初は江戸詰交代寄合表御礼衆)となった。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争で当主親敬は新政府に与し、戦後1万5200石に高直しされた。これによって生駒家は約200年ぶりに諸侯(大名)に列して、再び矢島藩を立藩した。したがって厳密にいえば、矢島配流(1640年)から交代寄合確定(1658年)までと、再立藩(1868年)から廃藩置県(1