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董允 - Wikipedia
董 允(とう いん)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家。字は休昭。父は董和。孫は董宏(晋の... 董 允(とう いん)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家。字は休昭。父は董和。孫は董宏(晋の巴西太守)[1]。『三国志』蜀書に独立した伝がある[2]。 略歴[編集] 章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位して劉禅を皇太子に立てると、その側近(太子舎人、次いで太子洗馬)として抜擢された。建興元年(223年)、劉禅の即位後は黄門侍郎に任じられた。 建興5年(227年)、諸葛亮は北伐に先立って上奏した出師表の中で、費禕・郭攸之と共に董允の名を挙げ「政治の規範・利害を斟酌し、進み出て忠言を尽くすのは彼らの役目です。宮中の事柄は全て彼らにご相談ください」などと述べた。次いで諸葛亮は費禕を参軍にしたいと要請したため、代わりに董允が侍中・虎賁中郎将に昇進し、近衛兵の指揮を任された。 費禕は北伐の随員となり、また郭攸之も大人しい性格であったため、諫言するのは専ら董允の役割となった。劉禅は常々、美人を