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加島屋の危機と女性実業家・広岡浅子の誕生(浅子と激動の幕末・明治維新) - 広岡浅子の生涯 | 大同生命の源流
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加島屋の危機と女性実業家・広岡浅子の誕生(浅子と激動の幕末・明治維新) - 広岡浅子の生涯 | 大同生命の源流
一八六五(慶応元)年、十七歳で広岡信五郎の妻となった浅子。 ただし、彼女が目にした加島屋の姿は、実... 一八六五(慶応元)年、十七歳で広岡信五郎の妻となった浅子。 ただし、彼女が目にした加島屋の姿は、実家の三井家とは異なるものであった。 「業務は番頭ばんとうや手代てだい任せで主人はのんびりしたもの。永久に家業が繁盛するか疑わしい。何か起きれば、自分が何とかしなければ」 浅子が過ごした京都・油小路あぶらのこうじ出水でみずの三井家から、東に一〇分ほど歩けば京都御所の西壁にたどり着く。その最寄りにある蛤御門はまぐりごもんで発生したのが、一八六四(元治げんじ元)年の「禁門きんもんの変」である。 ここで御所に押し入ろうとする長州藩と、門を守る薩摩さつま・会津あいづ・桑名連合軍との間で激しい戦闘が起き、類焼るいしょうで二万戸以上の町屋が焼失したと言われている。浅子十六歳の秋であった。