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漢字がない社会を生きていることもあり得たのです - 体験する仏教
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漢字がない社会を生きていることもあり得たのです - 体験する仏教
わたしたちが、漢字のない社会を生きていることもあり得た。このとことを知る人は少ないのではないでし... わたしたちが、漢字のない社会を生きていることもあり得た。このとことを知る人は少ないのではないでしょうか。 戦後GHQは、何万とある、複雑な漢字は、日本を合理的な国に変えるのに害があると考えていました。昭和二十一年一月、この考えを受けて朝日新聞は「ローマ字を普及すべきだ」という趣旨の記事を掲載しています。 戦前から漢字廃止を主張する知識人はいて、それは「かな表記派」と「ローマ字表記派」に分かれていました。 「ローマ字表記派」の一人に、歌人で国語学者の土岐善麿(とき ぜんまろ)がいます。冒頭の写真は、戦前に刊行された、土岐善麿の新訳中国詩選『鶯の卵』の「春暁」のページです。「春眠暁を覚えず」を、新たに「春あけぼののうす眠り」と訳し、上段には「Haru Akebono no Usunemuri と記載されています。 土岐は『鶯の卵』の末尾につぎのように記しています。 日本では漢字を日用の文字にし