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常夏通信:その67 戦没者遺骨の戦後史(13) 硫黄島生還者が語る栗林忠道中将 戦術巡る対立でいらだち | 毎日新聞
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常夏通信:その67 戦没者遺骨の戦後史(13) 硫黄島生還者が語る栗林忠道中将 戦術巡る対立でいらだち | 毎日新聞
第二次世界大戦末期、硫黄島(東京都小笠原村)の戦いでは、日本軍守備隊約2万1000人のうち、生き残った... 第二次世界大戦末期、硫黄島(東京都小笠原村)の戦いでは、日本軍守備隊約2万1000人のうち、生き残ったのは1000人ほどだった。私はこのうち3人にインタビューしたことがある。大曲覚さん(故人)はその一人だ。日本軍の奇跡的善戦で知られる硫黄島の戦いだが、兵士たちは米軍との戦闘前から相当弱っていたようだ。「兵たちは壕(ごう)掘りや陣地造りのため、ほとんど不眠不休で働いていました。おまけにアメーバ赤痢や飢え、渇きに苦しんでいたんです。米軍が上陸してくる前、すでにまともに戦える状態ではなかった」と、大曲さんは証言してくれた。 1922年、福島県小高町(現南相馬市)生まれ。地元の旧制中学を卒業し海軍を志願。44年5月、21歳で少尉に任官した。同年8月、南方諸島海軍航空隊(南方空)の一員として渡島。若くしておよそ200人を指揮する立場である。 硫黄島の戦いといえば、守備隊を指揮した栗林忠道陸軍中将(戦