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熟議や討議は政治手法としてどうなのか? - 続・自我闘病日記
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熟議や討議は政治手法としてどうなのか? - 続・自我闘病日記
東浩紀の「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」と岡野八代の「フェミニズムの政治学 ケアの... 東浩紀の「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」と岡野八代の「フェミニズムの政治学 ケアの倫理をグローバル社会へ」を同時に読んでいる。それで悩んでいる。両者とも、社会をドラスティックに変えようというところでは一致しているのだが、その政治的手法がどうも正反対のようなのである。 東はルソーの提案する一般意志をベースにして政治の方向性を決定していこうと言う。一般意志とは、私たち一般の人々がもつ意思や欲望や要求などを集合知として集計した結果得られるものである。ここで集合知が何であるかが重要となってくる。集合知の意味を知っておかないと、東の提案は単なる衆愚政治となってしまうからだ。東が言うには、集合知とは、「みんなで集まって考えると、ひとりでは生み出せなかったようなうまい回答が出てくることがしばしばある」(30)が、それを指すという。こういうと、世界中の人々が集まるなんて不可能じゃないか、とい