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『よい教育』と『よい公教育』は同じか?(学問としての教育学)|学校教育本 読書ゼミ
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『よい教育』と『よい公教育』は同じか?(学問としての教育学)|学校教育本 読書ゼミ
私は、「理想の教育は〇〇」という議論が好きでは無い。それを振りかざす人は穿ってみるようにしている... 私は、「理想の教育は〇〇」という議論が好きでは無い。それを振りかざす人は穿ってみるようにしている。なぜなら、理想の教育は"人それぞれ"だと思っているからだ。万人に合う教育などないし、むしろ、万人共通の教育でも、人によって得る学びは異なる。しかし本書では、表紙に「よい教育とは何か。(中略)その全てに"答え"を出す」とある。これはと思い読み進めた次第である。 本書に関する理解(超ラフに)丁寧な要約は最後に記載するが、ラフにまとめると以下のような理解である。 よい教育って、その人の欲望-関心次第。「よい教育だ」と思ってしまっているんだから、それが真実。現象学的にはそれでOK。 ただ、本質的には人間の欲望は『自由』なんだ。また、個々人の自由を尊重するだけだと自由のぶつかり合いが起きるから、社会全体では『自由の相互承認』も大事なんだよね。だから、公教育は『個々人の自由実現』と、『社会の自由の相互承認