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この正義の味方が殺しあうインターネットの中にあっても、僕は親鸞になりたかった。後編|相川真司(かわんじ) #DiQt
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この正義の味方が殺しあうインターネットの中にあっても、僕は親鸞になりたかった。後編|相川真司(かわんじ) #DiQt
親鸞は誰も攻撃しない。「正しさ」は、「誤り」に対する攻撃を正当化する。 正義の味方の条件は、悪に対... 親鸞は誰も攻撃しない。「正しさ」は、「誤り」に対する攻撃を正当化する。 正義の味方の条件は、悪に対して冷酷になることだ。 だから洋の東西を問わず、「真理」と「正義」を掲げる宗教も、異教や異端に対する冷酷な攻撃を正当化してきた。 多くの宗教は、正しい者を「天国」に入れる一方で、その正しさの影として生まれてしまう正しくない者を「地獄」に落とそうとする。 来世だけのことではない。 いまの世においても、異端に地獄を味あわせてやろうと意気込む正義の味方は多い。 「誤りは、何としても正さなくてはならない。」 「正義の下に行われるのであれば、敵を殺しても良い。」 人は自らの正しさを信じれば信じるほど、正しくないものに対する感受性を失っていく。 自分の正しさへの情熱と信念を強めれば強めるほど、私たちは意見の異なる他者への共感性を失っていく。 自身の善性を信じれば信じるほど、悪に対する感受性を失う。 自分の