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「3歳の息子は重石を付けて沈められた」流人になった源頼朝が伊豆で受けた酷い仕打ち 婿にするには危険すぎる男だった
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「3歳の息子は重石を付けて沈められた」流人になった源頼朝が伊豆で受けた酷い仕打ち 婿にするには危険すぎる男だった
頼朝がナンパ師であったことは間違いない ヒマ人の頼朝が毎日することは、父義朝はじめ一族の菩提を弔う... 頼朝がナンパ師であったことは間違いない ヒマ人の頼朝が毎日することは、父義朝はじめ一族の菩提を弔うための読経(だけ)であった(『吾妻鏡』治承4年7月5日条)。金があってヒマで健康な男がやることは決まっている。 ナンパである。 幕府を開いてからの行状を見れば、頼朝がナンパ師であったことは間違い無い。 そして無粋な男ばかりの東国にあって、武士の世界ではトップクラスの血統で、都育ちで、その上「かわいそうな境遇」の頼朝は、さぞやモテたことであろう。 しかし、残念ながら、流人時代に頼朝が引っかけたことがわかるのは、2人である。 まず、今は温泉街で有名な伊東を本拠地とする伊豆最大の豪族伊東祐親の娘(俗に八重と伝える)。 頼朝は祐親が京都に出張中に八重に通じ、男子(俗に千鶴と呼ばれる)をもうけた。 そして安元元年(1175)9月、頼朝29歳の時、事件が起きる(寿永元年2月15日条)。 京都から帰って来た