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古代の湾のつながりを知る –国府・多賀城と外港・塩釜–
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> > > 多賀城市には海がありません(実際にはほんの少しあります)。でも「多賀城」の成り立ちには松島... > > > 多賀城市には海がありません(実際にはほんの少しあります)。でも「多賀城」の成り立ちには松島湾が深く関係しています。宮城県の地形や歴史に詳しい木村浩二さんから、松島湾と塩釜、多賀城の関係をお聞きしました。 松島湾には、湾の入り江のいたるところに貝塚があり、実は、全国でも有数の貝塚立地エリアです。縄文時代、この地域は今の千葉県くらい暖かかったそうです。数千年に渡って人が定住していたと思われる集落跡も見つかっており、食物が豊富で暮らしやすい豊かな場所だったことをうかがい知ることができます。 弥生時代以降、大規模な水田を経営する技術が定着してくると、地域の中心は松島湾の沿岸部から平野の多い内陸部へと移りました。でも松島湾から人がいなくなったわけではなく、沿岸部の暮らしはずっと続いていました。その証拠に、沿岸部から弥生時代や奈良時代の土器も出土しているそうです。 奈良時代になって、内陸部