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性とは神への歓待や豊穣の祈りではなかったのか―『遊女と天皇』 大和 岩雄 | 考えるための書評集
大和岩雄はこの本が出される1993年より十年前の1983年に、レイラインを考察した『天照大神と前方後円墳... 大和岩雄はこの本が出される1993年より十年前の1983年に、レイラインを考察した『天照大神と前方後円墳の謎』という本を出している。 夏至や冬至の太陽の日出没の方角に寺社山岳が地理上で結ばれているのではないかというレイラインの分析である。そこで本書の考察の主題となる「一夜妻」や「神聖淫売」がとりあげられていて、わたしはもっとくわしい本を読もうとこの本を手にとったわけである。 レイラインでは神々が新しい年の太陽を性交によって生み出すという古代の世界観があり、王や民衆が性的放縦をおこなうことにより、新しい年の豊穣や繁盛が世界にもたらされるという考えがあった。この考えにならえば、人々が乱交や性的放縦をおこなった理由が連なってくるというものである。 その連なりが本書ではいまいち弱い気がするので、本書だけを読めば、聖なるものとしての遊女というテーマだけを読みとってしまうことにならないかと思うのだが。
2012/12/14 リンク