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女性のナチ党支持から考える「ジェンダーフリー・バッシング」問題(1) | 私にも話させて
「ジェンダーフリー・バッシング」(以下、「」は省く。どう呼んだらいいのでしょうか)の力が強くなっ... 「ジェンダーフリー・バッシング」(以下、「」は省く。どう呼んだらいいのでしょうか)の力が強くなっている原因について最近考えている。ジェンダーフリー・バッシングを表立ってやっている連中よりも、本来声を上げるべき人々の沈黙・黙認について考えたい。 これは、構図としては、近年のマイノリティに対するバッシングと似たものがあるように思う。たとえば、『嫌韓流』的な在日朝鮮人バッシングの隆盛は、非常に大雑把に言えば、リベラル派や一般市民がバッシングを黙認している点に大きな要因がある。<嫌韓厨>が増えているのは事実だろうが、そうした差別主義者は戦後を通して一定数存在してきただろう。これまでは戦後民主主義(?)の「良識」によって、そうした攻撃は表立っては「やってはいけないこと」になっていたが、彼ら・彼女らが「黙認」に転じたからこそ、あからさまな民族差別言説が大手を振ってまかり通っている現状を迎えているという
2007/01/12 リンク