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中島敦 李陵
漢(かん)の武帝(ぶてい)の天漢(てんかん)二年秋九月、騎都尉(きとい)・李陵(りりょう)は歩卒... 漢(かん)の武帝(ぶてい)の天漢(てんかん)二年秋九月、騎都尉(きとい)・李陵(りりょう)は歩卒五千を率い、辺塞遮虜(へんさいしゃりょしょう)を発して北へ向かった。阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風(さくふう)は戎衣(じゅうい)を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北(ばくほく)・浚稽山(しゅんけいざん)の麓(ふもと)に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴(きょうど)の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿(うまごやし)も枯れ、楡(にれ)や柳(かわやなぎ)の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍(きんぼう)を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧(かわら)と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目
2011/12/04 リンク