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ドゥルーズにおける「記号」概念について―『シネマ 2』第2章の精読―
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ドゥルーズにおける「記号」概念について―『シネマ 2』第2章の精読―
本稿では、ジル・ドゥルーズ著『シネマ 1』、『シネマ 2』における「記号(signe)」概念に焦点を当てた... 本稿では、ジル・ドゥルーズ著『シネマ 1』、『シネマ 2』における「記号(signe)」概念に焦点を当てた考察を行う。それは、この概念が『シネマ』全二巻における本質的な要素をなしており、ドゥルーズによる「記号」概念の理解と、『シネマ』全体の理論に対する包括的視点を得ることとは、分けて考えることができないと思われるからである。またそれに加えて、ドゥルーズの提起した「記号」の理論は、古典的な映画研究にとどまらず、広く映像理論領域においても、今なお普遍的な価値を有していると考えられる。すでにこれまでにも、『シネマ』の批判的な分析の試みは、多くの理論家によってなされてはいる(1)。しかしながら、特にこの「記号」という点に関しては、必ずしも包括的な論述はなされてこなかったように思われる(2)。 それゆえ本稿では、ドゥルーズが、アメリカの論理学者 C.S. パースの記号論、およびフランスの哲学者アンリ