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信長・家康が警戒した武田勝頼の真価 | 歴史人
甲陽軍鑑 甲州流軍学の教科書。諸説あるが、主筆者は高坂弾正で、小幡景憲が編纂したとされる。誤情報も... 甲陽軍鑑 甲州流軍学の教科書。諸説あるが、主筆者は高坂弾正で、小幡景憲が編纂したとされる。誤情報も多く、史料としての信憑性は低いが、本書からのみ伺いしれる情報も少なくない。 武田信玄・勝頼2代の歴史を記した『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』が成立したのは、江戸初期のことである。甲州流軍学書のテキストとして、江戸時代のベストセラーのひとつとなった。 同書の原型は、信玄・勝頼に仕えた宿老春日虎綱(かすがとらつな)が、天正3年(1575)の長篠合戦大敗後、勝頼側近を諌(いさ)めるために書かれたという。 同書においては、信玄の正しさが強調され、その方針を改めようとした勝頼の非が、側近の責任という形で糾弾(きゅうだん)されている。同書は、勝頼を「強すぎたる大将」と評する。戦には強いが、同時に自負心が強すぎ、家臣の意見を聞かずに強引な戦をしてしまう。結果として、国を滅ぼす大将なのだ。これが『甲陽軍鑑』の