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自由と道徳 - 寺田俊郎 | トイビト
会員登録(無料)していただくと、記事から任意の箇所を抜粋したり、メモをつけて保存できるようになり... 会員登録(無料)していただくと、記事から任意の箇所を抜粋したり、メモをつけて保存できるようになります。 自由は、この世界のどこにも観察することはできない。そう主張したのはプロイセンの哲学者 イマヌエル・カント(1724-1804)です。そう言われても、我々人間は「自由」に行動していると思っているし、鳥は「自由」に空を飛んでいるし、魚は「自由」に海や川を泳いでいるように見えます。いったいなぜ、カントはこのように考えたのでしょうか。 カントといえば『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書が有名ですが、その一冊目にあたる『純粋理性批判』の中で彼は人間の認識の限界を明らかにしようとします。私たちはふつう太陽や月、海、山、草木、他人といった、この世界の「物」そのものの姿を認識していると思っていますが、それは大きな間違いです。人間に知ることができるのは人間の認識能力が及ぶ範囲のことだけ