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・蓮實重彦 『凡庸さについてお話させていただきます』(中央公論社、1986) 発言するということ、そし... ・蓮實重彦 『凡庸さについてお話させていただきます』(中央公論社、1986) 発言するということ、そして発言できるということはどういうことなのか考えてみたくなり、本書を手にとってみた。こんなことを取り止めもなく考えてみたくなったのは、今日の日本のようにほとんど誰でもかなりの自由をもって表現できる時代や地域というのは、当たり前のことながらきわめて限られているからである。 蓮實は、19世紀中頃から始まる「現代」という時代を、自分自身を含めて「誰もが凡庸たるべき時代」として規定する(8ページ)。そうした凡庸の時代だからこそ、このブログとて可能なのだろう。 蓮實によれば、凡庸さは、19世紀中葉以降に生まれ発展してきた大衆社会とは直接的には関係をもたないが、「相対的な差異の場である」という(14ページ)。たとえば、才能の有無でもって芸術を論じるような振る舞いは、判断の尺度や土台そのものを揺るがすこと