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人を狂わせる戦争
中川さん、牧野さん語る 豊橋市明海町には太平洋戦争当時「豊橋海軍航空隊基地」があった。ここで訓練を... 中川さん、牧野さん語る 豊橋市明海町には太平洋戦争当時「豊橋海軍航空隊基地」があった。ここで訓練を受けた若者の一部は、特攻隊員として散った。「戦争は多くの命が奪われる。二度と起こしてはいけない」と訴える人たちがいる。 基地は1943年4月に完成した。1500㍍級の主滑走路3本のほか、小型機用の1000㍍級滑走路2本があった。海軍屈指の大飛行場だった。第11航空艦隊の陸上攻撃機要員練成部隊だった。 この基地に詳しい同市大崎町の中川茂さん(75)によると、工事は徴用された朝鮮人2000人余も使われていたという。当時最新鋭だったサンドポンプを使って海を埋め立てた。埋め立て用の土は大崎地区の山を削り、専用トロッコで運んだ。朝鮮人労働者家族の集落も大崎の中にあったという。 戦争末期、米軍の空襲が予想される際は、基地の飛行機は、戦わずに避難していたという。中川さんは「人命よりも飛行機を大切にしていた。
2022/08/07 リンク